るろうに剣心 伝説の最期編 サウンドトラック15 「飛天 〜伝説の最期〜」

 

 

毎日毎日、一瞬一瞬が、疑問の誕生であり、迷いの誕生であり、苦悩の誕生の連続だ。

己の弱き心、賤しき心、醜き心に引っ張られ、足をすくわれ、流されて。
もともと僕が持って生まれた命の性質であり、クセなんだろう。よっぽど注意を払って振る舞わないと人生丸ごともっていかれそう。
時には、一瞬にして川底深く飲み込まれることもあるし、はるか下流まで流されてしまうこともある。岩や流木に叩きつけられながら。
宿命という川に流されぬよう逆らって生きねば。
思えば子供の頃から心の内は独りだった。独りで何かを求めて歩いていた。それが親なのか、友だちなのか、もしくは、なにか納得のいく答えだったのか、それら全部だったのか、もう忘れてしまったけど。
今も心の季節は毎日が真冬の深夜だ。吹雪だ。
現実の世界では夏だというのに。

今の延長線の未来に目を向ければ不安に陥ってしまう。それでも、過去を振り返ると、楽しかった頃があるのは不思議だなと思う。
怠け者なりに頑張っていたということなのか。御本尊からのささやかな贈り物と思うと嬉しい。
楽しかった過去の自分はどう思って日々を過ごしていたんだろう。信心を知らない頃は、欲を満たしたくて楽という楽に、全力でしゃぶりついていた。結局そういうことか。

ありのままの自分で生きていたい。
飾らない、「ありのままの自分」で。
自分の人生に責任をもって真剣に取り組んでいきたい。
それなのに、気が付けば、いつの間にか真剣が見栄へと劣化していることに気づいた。
努力が見せかけへと怠化していることに気づいた。
鏡に映っているのは、ジャラジャラ飾っている自分だった。
慣れないことを継続するというのは難しい。
〝偽りの自分を愛されるより、ありのままの自分で嫌われた方がいい〟
そう思うくせに、やっぱり自分が可愛いのかな……。
良く見せようとする自分にムカつく。
信心を学び、行じて、それなのに後退して……。
今の方がよっぽどズル賢い人間になっているのかもしれない。恥知らずな奴だ俺は。

「幸せそう」とか「幸せっぽい」って、ふわっと濁した表現をするのは、心のどこかでそれが、次の瞬間には不都合な縁に触れてしまえば、脆く崩れてしまう儚い幸せなんだと知っているからなのかもしれない。
謙虚な人が「人並みに幸せになれたらいい」と言っていた。
はじめは、凄いな、控えめで大人っぽいな、と思った。
だけど、よく考えてみたら、どれくらいが人並みなのか分からなかった。
ともあれ、およばずながらも、僕も、全人類が一人も漏れることなく幸福になってほしいと祈っている。
「自他共の幸福」の信心だ。皆んなも、僕も共々に〝最高の幸福〟を、と図々しく祈っている。

人は誰しも未完成だ。完成された完璧な人なんていない。そうである以上、必然的に、人は、自己の向上を目指すだろう。
人は生まれながらにして本然的に幸福になろうとする生き物だと思う。それは、生まれる目的が〝幸福になるため〟だから。
であるならば、一見、ネガティブに捉えられがちだけど、悩みや苦しみは向上のためには常につきものだろう。
同じように、欲や迷い、疑いだって生じなければならない存在なんだと思う。

『例えば、厳しい状況から何とか抜け出したいと願う人たちに、〝どこか違う場所に行けば、ただちに問題が解決し、幸福になれる〟との思いを抱かせる思想に対し、立ち向かった大聖人は、「(ここ)()って(かしこ)に行くには(あら)ざるなり」(御書781㌻)と強調しました。
 「浄土(じょうど)()穢土(えど)と云うも土に二の(へだて)なし(ただ)我等が心の善悪によると見えたり」(同384㌻)とあるように、自分の今いる場所で苦悩と正面から向き合い、絶望の闇に覆われかけたその場所を「悲劇の舞台」から「使命の舞台」へと変えていく。そして、苦悩に挑む自身の姿を通し、「同じ苦しみを抱える人々が、生きる希望を取り戻す場」へと転換させる道を選び取るよう、促したのです。
 さらに大聖人は、社会でどんな悲劇が起ころうとも
(われ)関せずと自分の世界に閉じこもる「現実逃避」の傾向を強めかねない思想に対しても、誤りを正すために闘い抜きました。
 ――仏教でも、不幸に沈む人々を救う方便として、苦しみや迷いといった
執着(しゅうちゃく)から離れる道を説いたものがある。しかしそれは、あくまで仮の教えであって、釈尊の本意ではない。
 ゆえに、法華経薬王品の「
離一切苦(りいっさいく)」(一切の苦を離れしむ)の経文についても、「『離』の字を『明らむ』と読むのである」(同773㌻、趣意)と。
 つまり、目の前の問題をあたかも存在していないかのように意識から閉め出すのは、問題の先延ばしにすぎないばかりか、状況をより悪化させるだけであり、苦しみに真正面から向き合って原因を明らかにし、解決への道筋を見極めつつ、悲劇に見舞われる前の状況よりも、平和で幸福な社会を築く道を選び取るべきであると説いたのです。

◆「誓願(せいがん)」とは自身の生きる証しの異名◆

 また大聖人は、社会の混迷が深まる状況を動かし難い現実として甘受するほかないといった「現実追従(ついじゅう)」の思想に対しては、仏法で説く「如蓮華在水(にょれんげざいすい)」の法理を通し、混迷が深ければ深いほど人間の生命は限りない力を湧き出すことができると強調しました。
 蓮華の花が泥水の中にあって、汚れに染まることなく美しい花を咲かせるように、社会に混迷をもたらすさまざまな課題の只中に勇んで身を投じ、現実の課題との格闘の中から、自己の生命力を強めるための養分を、一つまた一つと汲み上げていく。その中で、自分自身を〝希望の大輪〟として花開かせるとともに、社会に〝現実変革の実り〟をもたらす道を選び取るように訴えたのです。
 翻って現代においても、核兵器の脅威や環境破壊のように問題が深刻であればあるほど、できるだけ考えないでおきたい課題として遠ざけようとする風潮が強く、たとえ危機意識を持った人でも、自分一人が行動したところで何も変わらないとあきらめてしまう場合が少なくありません。
 その無意識や無気力の壁を破るには、マンデラ氏が「人間として、何もせず、何も言わず、不正に立ち向かわず、抑圧に抗議せず、また、自分たちにとってのよい社会、よい生活を追い求めずにいることは、不可能」(前掲『自由への長い道(下)』)と叫んだような〝使命感〟や、環境活動家のワンガリ・マータイ博士が「私たちは、傷ついた地球が回復するのを助けるためにこの世に生を受けた」(アンゲリーカ・U・ロイッター/アンネ・リュッファー『ピース・ウーマン』松野泰子・上浦倫人訳、英治出版)と述べたような〝誓い〟に貫かれた行動が、何よりも必要となってくると私は考えます。
 先ほどの「如蓮華在水」も、混迷深まる時代に生まれることを自ら求め、失意に沈む人々のために行動する生き方を貫くことを、釈尊の前で「誓願」した
地涌(じゆ)菩薩(ぼさつ)の姿を示した法華経の言葉でありました。
 ここで言う「誓願」は、誰かが行動することを期待して事態の変化を待ちわびるような願望でも、状況が厳しくなった時に吹き飛んでしまうような約束でもない。どんな困難や試練が押し寄せても、どれだけ歳月や労力がかかっても、必ず成し遂げていく――自分の全存在を賭けた〝生きる証し〟の異名ともいうべきものに他なりません』

 (2014年1月26日付 聖教新聞 3面~4面 第39回「SGIの日」記念提言「地球革命へ価値創造の万波を」上)
 

少し、状況が上向いたかな、と思ったら、また嫌なことが続く。
逆境が、幸福にはなくてはならない存在だと、頭でわかっても、命に刻み込めていないから達観できない。
ほんの些細なことも、誰のことも許せないで苦しむ自分がここにいる。
だから、不安になって恐れ、心が内向きになって、自分のことを考えるだけで精いっぱいになってしまう。
自分だけの幸福なんて有り得ないというのに。薄情なものだ。
本当は、
本当はもう、幸・不幸なんて難しいことを考えるのをやめてしまいたい。今が良ければいいじゃん。刹那的であろうと。
まして、他人のことまでとてもじゃない。とぐるぐる輪廻が止まない。
僕にできるわけがない。
こんなどうしようもない人間だぞ。

でも、こんなどうしようもないクズをどうにかしたくて創価に入会したんだ。
なにもかも中途半端。
なにをやらせても中途半端。
一回、全力で振り切ってみたらなにかが変わると思って、信心だけは全振りでいこう、って思ったけど、すぐにくじけちゃう。
長所が見当たらん。

全部中途半端。

ある意味、中途半端さだけはズバ抜けて卓越しとる。
そこは認めるわ。

ただ、やっぱり、入会しただけではどうしようもない。
願いを叶えるのに、闇雲に祈るだけでは叶わない。
その上で必死の努力を重ねてこそ現実に変化が現れると思う。
自分の願いに対し、広布拡大に対し、実現していくための努力を。

心を外に開き、積極的に他者と関わっていくことを心がけたい。

毎朝毎晩、南無妙法蓮華経と仏の名を唱え、歯を食いしばって忍耐し、智慧を発揮して乗り越えていくなら、必ず心は鍛錬され自身の成長となるし、信心の鍛錬となり自身を限りなく輝かせていける最高の時となる。そうしていくなかに、永遠に壊されることのない絶対的な境涯も築かれていくはずだ。絶対的な幸福は築かれていくはずだ。

『生命のなかに四菩薩の働きがある。どういう世界でも負けない生命の働きが「上行菩薩」、自由自在の生命の働きが「無辺行菩薩」、「安立行菩薩」は確信のある崩れない生命の働きです。清らかな自身の生命が「浄行菩薩」の働きです。題目をあげ切り四菩薩の働きを涌現させながら、生きることが楽しいという、金剛不壊の自身を確立することです』
 (2022年7月22日付 聖教新聞 1面
)より

自身に具わる四菩薩を鍛えながらも発揮して、つまづいて、転んで、もう嫌になって挫けても、何度でも立ち上がって前へ進もう。
これもまた訓練だ。転んでも転んでも、挫けても挫けても、何度でも立ち上がって、一点だけを目指して真っ直ぐに前進できる自分をつくっていく訓練だ。

 

ふと思ったことがある。

信仰を、宗教を、仏法を、成仏を、幸福を知らない者が何を言っているのか。
とはいえ、残念ながら、宗教団体でありながら、騒動を起こしてしまう組織もあるのは事実のようだ。
一体、何のための信仰か。人の心を脅かしてカネをむしり取るように、食い物にして私腹を肥やすとは。
とんでもない組織だ。
信仰について、我が師、池田先生は次のようにわかりやすく指標を示してくれている。

 

 『新・人間革命』の執筆を始めた直後の九月、私はアメリカの名門ハーバード大学で、「二十一世紀文明と大乗仏教」と題して講演を行った。
 そこで訴えた一点は、宗教をもつことが人間を
 「強くするのか弱くするのか」
 「善くするのか悪くするのか」
 「
くするのかかにするのか」――

 この指標である。
 変化の激流の中を生きることを運命づけられた人間が、より強く、より善く、より賢くなる――どこまでも成長していく原動力となってこそ、「人間のための宗教」なのである。そして、これこそが、我らの「人間革命の宗教」なのである。
 この点、アメリカのデューイ協会元会長のガリソン博士も信頼の声を寄せてくださった。
 〝「人間革命」とは一人ひとりが、かけがえのない可能性を現実の中に開発し、社会全体に貢献していくのである。
 ゆえに「人間革命」の理念を掲げるSGIは、「どこまでも成長する宗教」である〟と

 (2018年9月15日 聖教新聞 「随筆 永遠なれ創価の大城」)より

 

ここへきてまた、「カルト」という言葉を見聞きするようになった。
ところで、その「カルト」って一体どういったものなんだろうか。たまに、創価もこのカルト扱いをされることがあるようだけど、いや、世間の人の中には、創価を、とにかく酷い扱いにしたくて仕方がない、といった感じの人も少なくないように、僕は感じている。だけど、僕の実感としては、入会前は無知ゆえにバカにしていた部分はあったけど、でも、入会した後の今でも、「カルト」と思ったことは一度も無い。
ここを参照→ 『「カルト」とは何か』
ともあれ、大聖人はじめ、創価の歴代の会長にも、そういった考えは一切無いし、組織にもそういった思惑は全く無い。
そりゃそうだろう。学会では、末法の御本仏である日蓮大聖人が書き綴られた「御書」から大聖人の御心を、また、振る舞いを学び、その通りに実践しているのだから、絶対に道を外れようもないと思う。
道を外れてしまうのは、自らの心が魔に敗れてしまったからに他ならない。
自ら謗法を断ち、絶対に師子身中の虫とならぬよう厳しく戒めて、生命を強く輝かせて、強く成長していかねばならない。
そのためにも日々の唱題、御書や小説『新・人間革命』等の研鑽が必須になってくるのだと思う。
たしかに、どれひとつとっても続けていくことは決して容易ではない。しかしながら、「継続は力なり」である。
僕なんかはすぐにへこたれてしまうんだけど、そんな僕のようなメンバーやまだ入会して間もないメンバーのためにも同志がいるわけで、切磋琢磨し励まし合って、時には喧嘩にもなるけど、それはお互いが一生懸命な証拠。兎にも角にも自他共の幸福を目指して奮闘している。
もちろん、宿命にあらがっていくわけで、決して楽ではない。むしろ、悪戦苦闘の連続で泣きべそをかくこともあると思う。だけど、だからこそ、幸福への下地もしっかりとできるわけで、何ひとつ無駄なことなどなかったんだと、後になれば気付くこともできる。
正しい宗教とは、先に述べたように、信心を学び、行じた者が「強く」なり、「善く」なり、「賢く」なるもの。「幸福」になるもの。それが、反対に、「弱く」なり、「悪く」なり、「愚か」になってしまうようなら、「不幸」になってしまうのなら、さっさとやめるべきでしょう。


『「大聖人は「日蓮、仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず。また、道理・証文よりも現証にはすぎず」(御書新版1941㌻・御書全集1468㌻)と仰せです。この御文で、道理とは理証のことであり、証文とは文証のことです。この御文に明らかなように、大聖人が、一番重視されたのが現証です。それは、本来、現実の人間を救うために仏法があるからです』

詳しくは、『創価学会の教義「三証」


大聖人は、堂々と「現証を見よ!」と言われているところが凄いと思った。
こうもハッキリとはなかなか断言することはできないと思っていたんだけど、そもそも僕自身が魔法のようなことを想像していたわけで、妖しいのは僕のスケベ根性だったんだと気付いた。
目を醒ませ! と。決めて祈って行動という創価の勝利の方程式で人生を開いていこう。

 

 『我ら創価学会は、永遠に「御書根本」の大道を歩む。
 末法の御本仏・日蓮大聖人が一切衆生のために留め置いてくださった、この不滅の宝典を拝し、「慈折広宣流布」の大願を貫き果たしていくのである。
 御書根本なるゆえに、いかなる三障四魔、三類の強敵にも屈せず、「賢者はよろこび」と、前進を止めない。
 御書根本なるゆえに、「桜梅桃李」の多様性を尊重し、互いに仏の如く敬いながら、「異体同心」の団結で万事を成ずる。
 御書根本なるゆえに、「生命の尊厳と平等」「民衆の幸福と安穏」そして「地球社会の平和と共生」へ、限りない価値創造の大光を放ちゆくのだ』

 (『日蓮大聖人御書全集』 新版 聖教新聞社 序1頁)

 

創価学会は、永遠に「御書根本」。
いつだって自身が立ち返れるものがあるというのは強みだと思う。しかもそれが、最高峰の教えというのだから、どんだけ凄いことか。

永遠に自己向上の最上の道を人間革命しながら駆け抜けていける。
僕自身は、あんまり出来は良くないけど、不器用なりに、失敗をし、調整しながら、全力で人生を走り抜いて、価値あるものにしていこう。



 

 

 

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