TRY AGAIN 现场版 -- 长渕刚 (『TRY AGAIN』 ー 長渕 剛)

 

長いと思っていた人生も、気がつけば50歳を終え51歳となり、本当にあっという間だったな、と本来ならば成熟しているはずの年齢でありながら、そうではなく、今からと思うとあまりにも時間が足りなく感じて……、もしかしたら、それほど強く感じることのないものなのかもしれない迫りくる死期に、焦りとやり切れなさが込み上げてくる。
僕は人一倍、怠け心が強く、とにかく面倒くさがり屋。焦りはあってもそれでもまだ、行動に移さないくらいだ。こういうと、言うほどではないってことよ、と言われそうだけど、萎縮するくらいかなり怯えています。
若い時から、面倒なこと、つまらないこと、苦労や困難なことを遠ざけて避けて生きてきた。
だけど、こうして、そのツケがまわってこようとは思いもしなかった。そして今、まだハッキリと顕れてはいないそのツケに怯えながら、相変わらずの日々を過ごしている。
後悔なら人一倍ある。山ほどある。星の数ほどある。
足りないアタマと、足りない経験、表しようのない欲求を今日も引きずって生きている。遊び惚けて好き勝手に生きてきた若かりし日々を悔いながら、「あの時もっと……」と。
でも、僕のこの“怠け心”も、「心」とあるように、己自身の「心」の作用に他ならない。
「楽」な方がいいし、つい「安逸(あんいつ)」を求めてしまう。
我が師池田先生は、そんな僕にピッタリのご指導を数多く残してくださっている。安逸をむさぼり溺れてしまわないように戒めていきたい。

 

 『民衆の魂を揺り動かした中国の革命作家・魯迅(ろじん)は言った。
 「目的はただ一つしかない――前進することだ」(「門外文談」松枝茂夫訳、『魯迅選集』11所収、岩波書店)
 「前進!」――本当にいい言葉である。戸田先生が、最後に叫ばれたのも、「追撃の手をゆるめるな!」。われら青年に「前進!」と託された。
 世界的な哲人も、「前進!」と叫んだ。有名な指導者たちも、「前進!」と呼びかけた。
 何より日蓮大聖人が、「前進!」また「前進!」の御一生であられた。「日蓮一度もしりぞく心なし」と仰せのとおりであった。
 人生と社会を勝ちぬいた賢者は皆、「前進しているかどうか」――その一点を厳しく見つめた。「進まざるは退転」である。ここに信心の急所がある。信心をするということは、すなわち、広宣流布へ前進すること、行動することなのである。創価学会は、法のため、人のため、社会のために、前進しているから、功徳がある。喜びがある。生きがいがある。前進するから、勝利する。幸福になるのだ。いくら暇があっても、信心の活動を避けて、安逸に流されてしまえば、幸福の道はない。人間として堕落してしまう。堕落には幸福はない
(※1)

 

“生きる”ことは、生命の流れの中に自身が生かされ存在しているということだと思う。
そして、その連続性の流れの中を如何にして進むのか。どう生きるのかを常に試されているのだと思う。
自分自身の人生ではあるけれど、自身に与えられたこの命を何に使い、どう生きるのか。幸福になるも不幸になるも自分次第。権利だ。
権利ということは、自由ということだ。だけど、自由ということは決して“好き勝手”つまり「無責任な自由」、ということを言っているのではない。
自分に与えられた命だ。であるならば、「責任ある自由」ということが権利の意味する所ではないだろうか。
その上で考えるならば、自身の命を大切にして責任を持つことだと思う。
責任を持つということは、生命状態をより善くしていくこと、より清浄にしてより強く光り輝かせていくことだと思う。
また、自身の生命が大切なように、他の誰の生命も同等に大切であることはいうまでもない。だから、自他共の生命の尊厳を互いに守り合い、支え合っていくことが大事だということだと思う。
前進は生命の成長だ。後退は勢いが衰えてしまう。それに、後ろ向きの人生って歩きにくいし、ヤバイだろ。
僕は、16年ほど前の2月5日、これまでの考えを捨て、創価学会の日蓮大聖人仏法に学び、生きていこうと生き方を改め直すため、入会し、心を新たにして、前進をはじめた。(かなりカッコをつけた言い方だ 笑)
当時、思っていたこと、それは、“創価学会の矛盾をあばいてやろう”“祈るだけで叶うんならとうの昔に皆んな金持ちだろ?”。そんな思いと、“僕のまわりは、無宗教で自称念仏宗の両親、そして身内も大概そうでしょ。その人たちの中で、分かったようなことを言っても、誰も幸せについて明確に応えられる人は一人もいなかったし、幸せな人もいなかったし、幸せそうな人さえもいなかった。もちろん、僕もその中の一人だった。
それで、今まで、誰一人として幸福になった人がいないから、幸福とは何かを知らない。幸福を知らないのに幸福を追い求めるってどうなの? 目の前にあっても気付けないのでは? って思ったし、今までの皆んなの生き方で、幸になることも、幸せそうになることも、それどころか、幸を知ることさえもできなかったのだから、皆んなが遠ざけている創価学会の宗教をやったら、ワンチャン何かが変わるかも?”、と疑ったり馬鹿にしたり、あわよくば的でイヤラシイけど、そんなことを思っていた。
矛盾をあばくだけの教学も何の力もないクセに、それでも、気付いたことは、矛盾だらけなのは学会でもなければ、学会員でもない。他の誰でもなく自分自身だった、ということ。
また、貧乏という金欠病も治るようだが、そもそも、貧乏だから不幸ではないし、金持ちだから幸福というものでもなく、はなから僕の幸福観がズレていたんだと後に気付けた。
それにしても、入会後も、だだくさに時を垂れ流しにし過ぎた。題目も活動も全然だ。
これまで、どうしても迷ってしまうことがあった。祈りが堂々巡りになって輪廻するんだ。だから定まらなかった。
だけど、この度、心の底から自覚したことで、これまでよりもガッチリとした手応えを感じた。

 

 『過去を礼讃する人がいる。外観や表面だけを見る人がいる。人間を政治的に、集団としてしか見ない人がいる。
 しかし――ホイットマンは言う。
  「自分自身であることに、人間の偉大なる誇りがある」(『ホイットマン詩集』長沼重隆訳、白凰社)
 そのとおりである。自分は他人にはなれない。自分自身の中に、自分自身の生き方があり、使命がある。果たすべき仕事がある。仏法という宇宙の法則も、自分自身の生命の中にあるのだ。
 その自分自身を革命させ、向上させていくことだ。そこに勝利の歴史は生まれる。

 フランスの哲学者パスカルは、鋭い警句を残している。
 「死ぬときはひとりだ。だから、人は、自分がひとりであるように行動しなければならない。そんなときに、豪壮な大邸宅を、建てたりするなどするだろうか。ためらうことなく、真理を求めるにちがいない」(『パンセ』1、田辺保訳、『パスカル著作集』6所収、教文社)
 死という厳粛な事実を前にしたならば、どんな大邸宅も、むなしい。正しい人生であったかどうかを、振り返らざるを得ないであろう。要は、自分自身に生きぬくことである
(※2)

 

たしかに、種々の願いもあるだろう。それはそれで大事なことだ。ただ、今の僕は、「心」以外は、いたって健康で、経済的にもギリギリだけど借金せずに生活できるようにまでなったし、財務だってなんとかできる。学歴もない、学歴どころか本当に勉強ができない。バツ3、正社員ではない日雇い派遣労働者、世間的に誰が見てもチョット引く、いわゆる落ちこぼれ系。
そんな僕でも、家のローン以外に借金はないし、ギリギリながらも今こうして生活させていただけている。その上で、世界最高峰の信心に就いて、自身の命を使わさせていただけている。使っているといっても微々たるもので、本当なら、もっともっと使えるはずなのに、人知れず怠けているだけ。それでも、それなのに、これまでよりも、全然全然幸福なんですよ。だから、もっと信心を鍛え深めて尽力すれば、もっと素晴らしいことになっていくと思う。
もっと欲張ってもいいというけど、これ以上何を求めたらいいのだろうかとも思う。たしかに決して恵まれた環境ではないことはわかっているし、正直、お金はもっと欲しい。だけど、それを言いだしたらキリがないし、歯を食いしばって生きることも大事だし、そういうのも楽しんでいきたい。そして、そういうことよりも、僕にとってもっと大事なことに気が付いてしまったような気がするんだ。
この正月の新年の拝読御書でも読まれた上野殿御返事(正月三日御書)。

 『花は開いて果(このみ)となり・月は出(い)でて必ずみち・燈(ともしび)は油をさせば光を増し・草木は雨ふればさかう・人は善根(ぜんこん)をなせば必ずさかう』
 (御書1562㌻)

 『花は咲いて果となり、月は出て必ず満ち、燈は油をさせば光を増し、草木は雨が降れば茂る。人は善根を積めば必ず栄える。

 本抄は、弘安3年(1280年)の1月、日蓮大聖人が、師弟共戦の不屈の信念を胸に一年の出発を切った若き南条時光に送られた御書です。
 ここでいう「善根」とは、「善い果をもたらす因」ということで、福運と言えるでしょう。大聖人は、広宣流布に生きるという最高の大善根を積みゆく門下が、必ず無量の大福徳に包まれることを、花が実を結ぶなどの自然の道理に例えて教えられています。
 日々、法のため、人のため、広宣流布のために精いっぱい力を尽くす。その真心の信心が功徳善根となって、生命に幾重にも積み重なり、わが人生を勝利の花で飾っていくのです』
(※3)

 

このように生きていこうと思ったら、自分のためのお金の事などどうでもよくなってしまった。だって、どちらにせよ、功徳善根を積んでいけば、結果は必ず後から付いてくるのだから、気にしなくてもいいし、そもそも、見返りを期待してやるのも変でしょ。
それよりも、真心から尽くしていきたいと思うから、この真心の「心」をとにかく磨いていかなければ、という思いがより強くなった。
そして、金欠病について、第二代会長戸田城聖先生は次のように言われている。

 

『貧乏というのは“金欠病”といって重病中の重病なんだ。
そう簡単に治りはしないよ。
同じ病気でも、痛みのあるものや、苦しみの伴うものは、そのままにしておくと信心を疑うので御本尊様も哀れみを感じられすぐに結果が出るようにしてくださるが――。
命に別状がないものは時間がかかる。
まぁ、早くても……
7年はかかるだろう。
そうガックリすることはない。
ちゃんと守ってくださるから――。
大体、急にお金が入ってくると自分を忘れてしまうものだ。
ないほうがありがたいことだってあるんだよ!
(※4)

 

『早くても……、7年はかかるだろう』って、早くてもだよ(笑い)。僕は、すっかり16年間も迷走してきたから、もう、金欠病なんかにかまってられないし、そんなことに時間を使うよりも、と思う。とはいえ、贅沢はできなくとも、重度の金欠病は抜け出せたと確信している。
そう。今の僕にしてみたら危機感や緊張感がなくなってしまうから『ないほうがありがたい』と言えます。
妙心尼御前御返事に、

 

 『このやまひは仏の御はからひか・そのゆへは浄名経(じょうみょうきょう)・涅槃経(ねはんぎょう)には病ある人仏になるべきよしとかれて候、病によりて道心はをこり候なり』(御書1480㌻)
 この病は仏のお計らいだろうか。そのわけは、浄名経、涅槃経には病がある人は仏になると説かれている。病によって仏道を求める心は起こるものである――

 

と仰せであるから、僕にとっては今のところ命に関わることでもないうちは、この“金欠病”という病は、信心がもっともっと深まるまでは、治ってしまうよりは、With貧乏、With金欠の方が有り難いのだろうな、と本気で思う。
いらないわけではないけど、お金だって必要以上にあれば贅肉と一緒でしょ。そうじゃなくても僕はイヤラシイ人間だし、怠け者なのに(笑い)。
もう、そういうのがイヤなんだよね。
初代会長牧口常三郎先生は、こうも仰せだ。

 

天上を仰いで歩むよりは、地上を踏みしめて、一歩一歩進め(※5)

 

牧口先生の言われる通りの人生を歩みたい。
慢心を排し油断を排し人生の一歩一歩を真剣に、誠実に、謙虚に、丁寧に、大事に、勇敢に、力強く、楽しく進んでまいりたい。
借金があった頃は、3度の食事もままならなかった。バローのコロッケを一日に一枚という時もあった。冬は暖房も焚けず、電気代にビビりながらホットカーペットに真っ赤な毛布にくるまって寒さをしのいでいました。夏もビビりながら扇風機。たしかに惨めさもあった。いや、惨めしかなかった。
今はかなり改善され、それでも満たされた状況ではないにせよ、エアコンつけるし、生意気にコンビニ弁当。酒だって本気で「このままじゃ、体を壊して死ぬんじゃないか」「酔って事故や事件を起こして人に迷惑をかけてしまうんじゃないか」と悩んでやめたくなるくらい飲んでたから2年前にやめた。
車は軽のボッコでも、パワステ、パワーウインドウ、エアコンバリバリ。
独り身ではあるけど、大切な人と喧嘩して、暴言吐いて心を傷付けたり、悲しませたり、苦しめたり、憎んだり軽んじたりするくらいなら、寂しさや侘しさくらいなんてことはない。
生まれてくる時もひとりなら、死ぬ時もひとり。自分の寂しさ侘しさしのぎに誰かの手を煩わせたくはない。
何処でどう死のうと、心が信心を求め御本尊の方を、師匠の方を向いて死ねたらそれでバッチグーやと思っとる。
それまでは、重いケツを叩いて、仏間へ、活動へと、己を叱咤して人間革命と宿命転換の人生を楽しんでまいりたいと思う。そう。もう、“惨め”とは違ってきている。独り身だからお気楽なのかもしれないが、今は生活が満たされることよりも心の充実に視線が向いているのだと思う。
 

「あの日始めれば良かった」
その次の始めるべき時は今

そう 今日という日は お前に残された人生の一番若い日(※6)

 

彼は全然学会とは無縁だろうに、いつも漢(おとこ)惚れしてしまうAK-69さんの思想、歌詞に感銘。
僕のこれまでの人生は負けっぱなしだった。もう一度、己を奮い立たせろ!
51年という人生も、“あっ”という間だった。
あと残された時間は? いよいよ“あっ”という間だろう。
益々、責任をもって己の命を鍛え磨き育み、成長させていきたい。
そして、広宣流布のためにこの命を、時間を使っていきたい。

 

 『「一生空(むな)しく過(すご)して万歳(ばんさい)悔(く)ゆること勿(なか)れ」──一生を空しく過ごして、万年にわたって悔いることがあってはならない──と。
 一生は短い。しかし、生命は永遠である。短い今世の戦いによって、永遠の福徳を積むことができる。ゆえに決して、今世の法戦に悔いを残してはならない。人生に悔いを残しては何のための信心か。
 お金がある。暇もある。しかし空虚(くうきょ)だ──それでは人生は不幸である。
 反対に、たとえ、お金がなく、暇がなくても、充実感に満ちた人生は幸福である。
この幸福の実像を最大限に得るのが信仰である。妙法である。
 広布に生きる人生は多忙である。苦労も多いかもしれない。しかし、普通の人生の十倍、百倍の価値ある人生を生きているのである。大聖人の仰せの通り、永遠の栄光に包まれた人生であることを確信していただきたい』
(※7)


無始の生命のこれまでの時の流れの中で、この人生がいっちゃんえー“時”を過ごせた! この人生が幸福への分岐点となった。この人生が有意義な“時”となったって言えるように、一日一日を日々精進し、常に挑戦を忘れずに、惜しまずに、今この一瞬に全力を尽くし切っていきたい。

 

 

 

AK-69 - 「Forever Young feat. UVERworld」 from『DAWN in BUDOKAN』(Official Video)

 

 

 

引用出典
※1、※2 『池田大作全集』スピーチ 第99巻 「代表幹部研修会(1) 前進! 前進! 幸福の大道を」 2005.8.15 聖教新聞社 https://www.seikyoonline.com/

※3 2021年1月1日付 聖教新聞 https://www.seikyoonline.com/
※4 劇画『人間革命』〈73〉上昇機運(中)2021年1月13日付 聖教新聞社 https://www.seikyoonline.com/
※5 2021-1 『大白蓮華』 池田先生の講義「世界を照らす太陽の仏法』 第69回「『信心即生活』『仏法即社会』の前進を」 聖教新聞社 https://www.seikyoonline.com/
※6 AK-69 - 「Forever Young feat. UVERworld」作詞:AK-69/TAKUYA∞

※7 『池田大作全集』スピーチ 第82巻 「全国青年部幹部会、小平・町田・中野合同総会」 1993.4.13 聖教新聞社 https://www.seikyoonline.com/