第1章 二十世紀後半の世界
8 愛国心と人類愛
池田 自分自身が生きている国土や社会を愛し、より発展させていこうと願うことは、元来、自分の生命を慈しみ、生活を向上させようとする人間の本性に根ざした心情が、社会的な方向をとったものであると思います。
それ自体は美しいことであり、人間として大切な問題です。そうした意欲も気力もなかったならば、今日の人類社会の発展はなかったことでしょう。
しかし、自身の生存する社会への自然な愛が、ひとたび国家対国家の対立のなかに巻き込まれ、利用され始めると、それは妖しい光を帯びてくるものです。これは、人間の心の自然の発露が、国家というまったく次元の異なる原理によって変形させられるからだと思います。
国家対国家の関係は、敵対関係としてとらえられることが、ままあります。それは必然的に、自国が他国に対して優位に立つことを要求します。また、国民の意識のうえにも、あらゆる点において、他の国よりも優れた国家として自覚することを要求します。
西洋においては、この自国優先の思想は、古代ユダヤ教、ひいてはその流れを受けたキリスト教につきまとう選民思想によって裏打ちされ、神の恩寵を受けた国家という意識にまで強められていったようです。また、明治以降の日本にあっても、“神国日本”という信念が精神的バックボーンとして採用されてきた事実があります。
この国家主義のもとに、どれほど多くの青年たちの純粋な愛国心が歪められ、利用され、踏みにじられてきたことか――。
そこでは、自己の生存する社会への純粋な愛であったものが、他国民への憎悪ないし蔑視に変わり、自己と社会の共存の理念であったものが、いつの間にか国家社会のための自己犠牲へと変質していったわけです。
トインビー 二度にわたる世界大戦をはじめ、アメリカ独立戦争やフランス革命以後に起こったほとんどの戦争において、世界中のあまりに多くの青年たちを悲劇と破滅に追いやった、あの種の愛国心というのは、私のみるところでは、一種の古代宗教なのです。西欧諸民族がこの古代宗教へと再転落したのは、彼らが近代に至って先祖伝来の宗教たるキリスト教への信仰を失い、その結果生じた宗教的空白に自分たちがいることに気づいたときのことでした。この新たに蘇生したキリスト教以前の宗教は、地域共同体の集団力をその崇拝の対象とするものです。元来それは、古代シュメールやギリシャの都市国家における、市民たちの宗教だったのです。
ギリシャ・ローマの歴史では、こうした各地域の集団力への崇拝が、やがてローマ帝国全体の集団力に対する崇拝へと変容していきました。ローマ帝国は、領民が知るかぎりでは“天下万物”を治めており、その意味では同帝国の権力は世界的なものでした。しかし、ローマ帝国はそれよりも長く存続していた帝政中国と数世紀にわたって併存していたのであり、帝政中国も、その領民が知る範囲では、やはり“天下万物”を治めていたわけです。ところで、キリスト教の殉教者たちは、このローマ帝国の集団力崇拝を不満足かつ不十分な宗教であるとし、この宗教への帰依を意味する儀式を執り行うことを嫌って、むしろ殉教の道を選んだのでした。
私の考えでは、このキリスト教殉教者たちの態度は正しかったと思います。もっとも、神としてのシーザーや女神としてのローマを崇拝したことは、都市国家アテネの地域的集団力の象徴としての女神アテナへの崇拝に比べれば、人間の集団力崇拝としては、まだ害の少ないものでした。世界的な広がりでの人間の集団力崇拝は、人類に政治的統合を、したがってまた平和を、もたらしたからです。しかし、地域的なものであれ世界的なものであれ、人間の集団力が崇拝の対象として適当でないことは確かです。国家というものは、地域的国家であれ世界的国家であれ、たんなる公共施設にとどまるべきものです。
池田 国家意識ないし国家対国家の敵対意識は、地域的集団力が基盤となって成立してきたものだという、博士のご意見には私も賛成です。そして、その人間の集団力を崇拝することがまったく誤りであることも、ご指摘の通りです。
ところで、現代人にとって、生活の基盤はすでに全世界的規模に広がっており、かつてのように、人間の生存の基盤が国家という限られた狭い枠に閉じ込められ、しかもそれが人間生存の不可欠の要素と信じられた時代とは、もはやまったく様相を異にしています。現代においては、自分が生きている国土とは、そのまま世界を意味するといえましょう。
したがって、かつての本来的な愛国心の理念にあたるものを現代に求めるとするならば、それは世界全体を“わが祖国”とする人類愛であり、世界愛でなくてはならないと思います。そのとき、国家的規模における国土愛は、いまでいう郷土愛のようなものになっていくのではないでしょうか。
トインビー いまや人類の居住地全体が技術面で統合されているわけですから、心情面でも、これを統合することが必要です。これまで人類の居住地のうち、局地のみに、そしてその住民と政府のみに捧げられてきた政治的献身は、いまや全人類と全世界、いなむしろ全宇宙へと向けられなければなりません。
ギリシャ哲学のストア学派では、人間は宇宙の一市民であると唱えました。中国新儒学派の哲学者程顥は「“仁”の人は天地万物をすべて一体とみる。彼には、彼自身にあらざるものはない」また「自然と人間には何の分けへだてもない」と述べました。また、王陽明の世界観によれば「偉大なる人は、天地万物をみな一体とみなす。この人は世界を一家と考える」とのことです。
私は、人間にとっての正しい崇拝の対象とは、“宇宙の中に、その向こうに、またその背後にある究極の精神的実在”であると信じています。私の考えではまた、この究極の実在とは愛のことです。その意味で、私は「至高なる目的とは、人格の顕現、諸人への愛を第一義とすることである」という王陽明の格言に賛同しています。人間は、たとえそれが自己犠牲へ導くものであろうとも、あくまで愛に従わなければならないと考えるのです。愛とは、奪う代わりに与えるという、精神的衝動です。愛はまた、自我を全宇宙との調和へと引き戻す衝動です。自我が宇宙から疎外されているのは、その本然的な、しかし克服不可能ではない、自己中心性のゆえなのです。
第2章 軍備と戦争
4 “平和憲法”と自衛
池田 歴史時代に入って以来、およそ国家と名のつくあらゆる国は、自衛のためと称して武力をもってきたと思います。武力は国家の力の代表のようにさえ考えられてきたようです。現代も、それは例外ではありません。というより、むしろ現代に至って、科学技術の発達により、武力はかつて想像もしなかったほど強大になり、それに要する出費は膨大なものになっております。
とくに、米ソ英仏中のいわゆる核大国が装備している武力は、他国による侵略の防衛という概念をはるかに超えて、もしその力が行使されれば相手国はもちろんのこと、自国を含めた地球上の全人類の生存を脅かす規模と質のものになっております。もはや現代における武力は、既成の、歴史的に馴れ親しんできた防衛力という考え方とは異質のものになってしまっている、と考えなければならないでしょう。つまり、武力をもつ大義名分は、現代においては、すでにその根拠を失ってしまったと私は考えるのです。
トインビー 世界が約140の主権国家に分割されている現在の国際構造下で、最も効果ある国家自衛手段とは、物理的軍備の保有と軍隊の保持とを、すべて放棄することです。ただし、この場合、例外とすべきは、最小限の武器使用をもって各国内の法と秩序の維持にあたる、国家警察軍の存在でしょう。
他の主権国からの攻撃に備える、防衛のための軍備と軍隊を放棄するには、もちろん、本質的に他国を傷つけるような、また他国政府に正当な苦情の根拠を与えるような、国際的行動、政策を放棄しなければなりません。
ほとんどの政府が、そしてほとんどの個人が、今日、主権国間での、一国による他国攻撃が罪悪であることを認めています。戦争目的のためにつくられた国家の省庁や国家予算が、今日では一般に“戦争省”とか“戦争予算”とかの名称をもたず、ましてや“侵略省”とか“侵略予算”などと呼ばれず、“国防省”とか“国防予算”などと名づけられていますが、これは意味深長なことです。
池田 おっしゃる通りであり、国防のためだから、国民の税金を軍備の拡充のために注ぐのは当然だという、政府・権力者の言い分は、まやかしにすぎません。それにもまして悪質なのは、国を防衛するためといって、青年たちに生命の犠牲を求めるペテン行為です。その“まやかし”“ペテン”を最も象徴的にあらわしているのが“国防省”――日本の場合ですと“防衛省”――であり、“国防予算”“防衛予算”という名称です。なぜなら政治権力の多くは、この“防衛”を口実につくりあげた軍事力によって“侵略”を行い、他国民も自国民も、ともに苦難のどん底へと叩き込んできたのですから――。本当に“防衛”のためだった例は、きわめて稀でしかなかったのではないでしょうか。
トインビー ところが実際には、防衛のための編成・装備・徴兵と、攻撃を意図した同様の準備とを、予め区別することはできません。それゆえ、うわべは防衛を装った準備が、じつは攻撃を意図したものであるかもしれない、という疑惑を呼ぶわけです。そこで、これを脅威とする国は、それに対抗する準備を始めることになります。こうして、ひとたび軍備競争が始まると、競争国のいずれかがこの競争に勝とうとして奇襲攻撃をしかけ、これを予防戦争と称して侵略行為を正当化しようとしがちになります。
第一次世界大戦でドイツが敗北した後、デンマークは、シュレスヴィヒ地方のうち、ドイツ系人口が大半を占める地域については、ドイツから再併合することを拒否しました。シュレスヴィヒ全域は、かつて1864年の戦争でプロイセンとオーストリアに奪われたものであったにもかかわらず、デンマークはあえてそうしたのです。その後、両次の世界大戦の間に、デンマークは事実上軍備を撤廃しました。第二次大戦において、ドイツは、いわれもなくデンマークを軍事的に占領しました。しかし、第一次大戦後に画されたデンマーク・ドイツ国境線は、そのとき、ヒトラーの軍隊が一時的に占領した領土のうち、ヒトラーがドイツに有利なように修正するのを控えた、数少ない国境線の一つとなったのです。このように、デンマークが自主的にとった軍備撤廃政策は、さきに領土上の不正を拒否したことと相まって、たとえドイツが第二次大戦に勝っていたとしても、その正しさが立証されたことでしょう。
しかし、最良の自衛策が物理的防衛手段の放棄であるという論理は、まだ世界のほとんどの群小主権国家も受け入れるところとはなっていません。たとえば、中立の方針に身をゆだねた二つの主権国家、スイスとスウェーデンですら、侵略の抑止力として強力な軍備を保持しています。スイスは、その軍備のおかげで、たしかに両次大戦を通じて中立を守っています。スウェーデンもまた、両大戦において参戦を回避することに成功しました。しかし、後者の場合、第二次大戦においては、それはたまたまドイツがスウェーデン侵攻に何の戦略的価値も認めなかったからのことにすぎません。しかも、スウェーデンの中立を侵犯しなかったことの代償として、ドイツはスウェーデンから戦時輸送設備の接収を行っています。これはたぶん、厳密にいえば、スウェーデンの標榜する中立性とは相容れないものであったはずです。
池田 現在、日本の国内では、戦力を一切放棄することを定めた憲法9条をめぐって、自衛のための軍備が、この規定の対象になるかどうかが問題とされています。法理論上の問題は別として、現実の国際情勢下において、いかにして自国の安全と生存を維持していくかという観点から、この議論が起こっているのです。
再軍備をするべきだと主張する人々は、日本を除けば世界のどの国家でも軍隊をもっている実情を理由に、自衛の手段としての軍備をもつことは、独立国として当然だとしています。一切の軍備を放棄し、一切の交戦権を認めないならば、たとえ法理論上では自衛権を認めたとしても、実際的には自衛の意味をもたず、したがって自衛権そのものを否定することになるというわけです。
これに対して、軍事力による自衛権の保障ということに反対する人々は、自衛権の行使は、必ずしも軍事力による必要はなく、その一切の放棄という姿勢は、現状の国際関係のなかで十分な力をもつとしています。
自衛権は、対外的には、いうまでもなく、他国の急迫不正の侵略に対して、国家の自存を守る権利です。それは、対内的には、そして根本的には、国民の生きる権利を守るという考え方に根ざしています。すなわち、個人の生命自体を守るという、自然法的な絶対権の社会的なあらわれが国の自衛権というものであると思います。であるならば、その自衛権をもって他国の民衆の生命を侵すことができないのは、自明の理です。ここに自衛権の行使ということの本質があります。
問題は、あらゆる国が他国からの侵略を前提として自衛権を主張し、武力を強化しており、その結果として、現実の国際社会に人類の生存を脅かす戦争の危険が充満していることです。
しかし、この国際社会に存在する戦力に対応して“自衛”できるだけの戦力をもとうとすれば、それはますます強大なものにならざるをえません。それゆえ、武力による自衛の方向は、すでに行き詰まってきているといえましょう。
私は、この問題は、国家対国家の関係における自衛の権利と、その行使の手段としての戦力というとらえ方では、もはや解決できない段階に入っていると考えます。もう一度出発点に立ち返って大きい視野に立つならば、一国家の民衆の生存権にとどまらず、全世界の民衆の生存権を問題としなければならない時代に入ったと考えます。私はこの立場から、戦力の一切を放棄し、安全と生存の保持を、平和を愛する諸国民の公正と信義に託した、日本国憲法の精神に心から誇りをもち、それを守り抜きたいと思うものです。そして、それを実あらしめるための戦いが、われわれの思想運動であると自覚しております。
トインビー もし日本がその現行憲法の第9条を破棄するとしたら――いや、さらによくないことは、破棄せずにこれに違反するとしたら――それは日本にとって破局的ともいうべき失敗となるでしょう。
(中略)
私の見解では、日本にとって憲法第9条を堅持することは、今日のように混沌とした国際関係の中にあっても、なお有利なことです。もちろん、世界政府の樹立によって、世界の諸国民が現在の無秩序状態を終結させることに成功したとすれば、そのときこそ、先に第9条を憲法に盛り込むことによって、歴史の流れを正しく予測した日本国民の英知と先見の明は、きわめてはっきりと証明されることでしょう。
(以下略)
(対談 二十一世紀への対話 [中] 池田大作 A・トインビー 聖教ワイド文庫 聖教新聞社https://www.seikyoonline.com/)より