すべての人を幸福に――
宇宙と生命の「こんげんいっぽう」をかした「しょきょうの王」

 

 時代をえて今、人間のそんげんせいをうたい、人類に希望の光を送る法華経に、注目が集まっています。英語で「ロータス・スートラ(蓮華の法)」とばれる法華経。新連載「ロータスラウンジ――法華経への旅」では、法華経の成り立ちからかくほんの内容、さらに法理などを解説していきます。「入門編」(毎週火曜日付に、全4回にわたって掲載の予定)では、法華経のエッセンスをしょうかいします。第1回は「そもそも法華経って何?」です。

 

■万人成仏のため


 法華経ってそもそも何?――そう聞かれた時、なんて答えれば……。
 かんけつに答えるならば、法華経は「しょきょうの王」です。こう説明されても、ピンとこない人もいるでしょう。
 まずは、法華経がたんじょうするまでの、かんたんな歴史を追ってみます。
 仏教のそうしゃであるしゃくそんは、“しょうろうびょうというこんげんてきのうから、どうすれば人々を救えるのか”と、解決の道を求めます。そして、しんに、ちゅうと生命をつらぬこんげんの一法がそなわることに目覚めました。そこから、「目覚めた人」を意味するブッダ(覚者)とばれるようになります。
 釈尊は、万人のきゅうさいを目指し、さとった法を、相手に合わせて、自在に説いていきました。
 そしてにゅうめつせまった時、ゆいごんとして語ります。「みずからを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」(『ブッダ最後の旅』中村元訳、岩波文庫)
 どこまでも、「」と「法」をよりどころとしていくことを、弟子に言い残したのです。
 弟子たちは、釈尊の教えを伝承しながら、自己と法をたんきゅうする中で、さまざまな説法を整理・編集し、経典としてまとめていきます。このことを仏典けつじゅうといいます。こうした仏典へんさんの流れの中で、自らのさとりだけを求める生き方ではなく、自他共の幸福を求めるさつの生き方をたんきゅうしていったのが大乗仏教です。
 その中にあって、釈尊のこんかんとする教えをけいしょうはってんさせ、すべての人にそんごくぶっしょうが具わることを明かし、その仏の生命を開き現す道を説いたのが、大乗仏教のせいずいである法華経なのです。

 

■根本の教え


 多くの仏教経典があるなかで、差別なく、一人も残らず成仏できると説いているのが、法華経です。
 仏がこの世に出現した目的は、生きとし生けるものを成仏させることです。ゆえに、いっさいしゅじょうの成仏の道を開いた法華経こそが、仏が最も説きたかった根本の教えです。
 とは言っても、法華経以外の経典も、もちろん仏の説いた教えです。
 日蓮大聖人は「てんどうないてんしょうじょうごんだいじょうとうみなしんの法をかたはしかたはし説きてそうろうなり、しかりといへども法華経のごとく説かず」(御書1473ページ)とおおせです。
 他の経典は、万人成仏を実現するための根源の一法である妙法を教えるために、相手のこんや時などに応じて、部分的に説いた教えといえます。ですから、しょうれつや高低といった見方にくわえて、法華経との関係を部分と全体の関係としてみていかなければなりません。
 他の経典であっても、法華経によってとらなおしていくと、それぞれの教えを統一し、生かしていくことができます。その意味からも、法華経は「諸経の王」とばれています。
 大聖人は、「法華経ばかり成仏するしゅうなりと仏さだたまへり」(同544ページ)と、一切経の中で、法華経こそが第一であると仏が明言しているとおおせです。

 

■仏のかがや


 法華経には、釈尊の説く法華経のほかに、“過去の仏であるにちがつとうみょうぶつだいつうしょうぶつなどが説いた法華経”があったとしめされています。
 戸田先生は「同じ法華経にも、仏と、時と、衆生の機根とによって、その表現がちがうのである。そのごくは一つであっても、その時代の衆生のぶつえんせんじんこうはくによって、種々の差別があるのである。世間いっぱんの人々で、少し仏教を研究した人々は、法華経を説いた人はしゃ以外にないと考えている。しかし、法華経には、じょうきょうさつも、大通智勝仏も、法華経を説いたとあり、てんだいもまた法華経を説いている」(『戸田城聖全集3』)と言われました。
 それぞれの時代に、仏が自ら覚知した成仏の法を説いたということです。それらは、表現に種々のちがいがあっても、すべて法華経です。
 すべての仏にとって法華経こそが究極のへん的な教えなのです。
 池田先生は言われています。
 「すべてのみんしゅうを救うために説かれた仏法です。女性と男性に差別はない。出家と在家の違い、人種、学歴、あるいはけんりょくけいざいりょくなど、どんな社会的立場も関係ない。当然のことです。仏法は、だれのために説かれたか――むしろ差別され、しいたげられ、“最も苦しんだ”人々をこそ、“最も幸福に”かがやかせていく。それが仏法の力であり、法華経のではないだろうか」(『法華経の智慧』普及版〈上〉「序論」)
 万人成仏の根源の一法を解き明かしたのが、しょきょうの王である法華経です。そこには、すべての人を幸福と勝利に導く、仏の智慧がさんぜんと輝いているのです。

 

なるほど


 法華経は、しゃくそんが説いた法を、そのまま伝えたものであるのか、そうでないのかとのもんをもつ人もいるかもしれません。
 池田先生は、「かくしんとなる釈尊じきせつの思想が、へんさん当時の時代じょうきょう、思想状況に応じて、一つの形をとったと考えられます。時代が釈尊の思想をきゅうし、釈尊の思想が、時代を感じて出現してきた。『かんのうどうこう』(仏と衆生がたがいにつうじあうこと)です。へんてきな思想とは、そういうものです。真実の思想の生命力と言ってもいい。形態は新たになったとしても、時代状況のなかでは、それが、より、その思想の『真実』を表しているのです。その意味で、私は、直説かそうさくかと問われれば、直説だと言いたい」(『法華経の智慧』普及版〈上〉「序品」)と語っています。釈尊のしんに、最もかなった経典が、法華経なのです。

 

『法華経の智慧』から りょくかんやぶる「心のほう


 法華経以外のてつがくは、生命の法の「かたはしかたはし」すなわち部分観を説いたにすぎない。それらは「部分的真理」ではあっても、それを中心とすることは、生命全体をせいさせることにはならない。かえって、ひずみを生じてしまう。これに対し、法華経はそれらを統一し、きちんと位置づけ、生かしていく「こんげんの一法」を説いているのです。
 ◇ 
 法華経は、無力感を打ち破る宇宙大の「心のほう」を教えている。宇宙の大生命をきゅうしながら、はつらつと生きる人生を教えている。へんかくという真のだいぼうけんを教えている。
 法華経には、万人を平和へとつつみむ大きさがある。けんらんたる文化と芸術のかおりがある。いつでも「じょうらくじょう」で生き、どこでも「あんのんの土は安穏にして)」で生きられるだいきょうがいを開かせる。
 法華経には、じゃあくと戦う正義のドラマがある。つかれた人をはげます、あたたかさがある。おそれをのぞく勇気のどうがある。三世を自在にゆうする、かんの合唱がある。自由のしょうがある。
 (普及版〈上〉「序論」)

 

じゅう 仏のさとりをそのまま伝えるめいやくしゃ


 じゅう(344~413年、一説には350~409年)は、インド出身のぞくである父・えんと、こくおうぞくである母との間に生まれました。幼い頃から各地をしゅうがくし、仏教を学びます。その後、とらわれの身になるなどらんの人生でしたが、こうしんようこうに国師としてむかえられ、長安で経典の漢訳にはげみます。その数は、74部384巻ともいわれています。
 法華経の漢訳の中でも、羅什の「妙法蓮華経」が、法理的にも、文学的にも、もっとすぐれているとされ、広く伝えられてきました。
 羅什は死期が近づいた時、“私のほんやくあやまりがなければ、私の身を焼いても、舌は焼けずに残るだろう”と予言しました。その通り、舌は焼けなかったといいます。
 大聖人は、「羅什一人ばかりこそきょうしゅしゃくそんきょうもんに私のことばれぬ人にてはそうらへ」(御書1007ページ)と、羅什の訳こそが、仏のさとりのしんをそのまま伝えていると仰せです。

 

 

 (2018年12月4日 聖教新聞)より