「自分を変えたい!」――だけど、なかなか変えられないで、思い悩み、迷走する私にとって、とても興味をそそる記事が「創価新報」に掲載されていました。
読み続けていくと、なんと! 私だけではなく、自己肯定の低い方は、けっこういらっしゃるような感じで、びっくりしましたが、と、同時に、安心しました(笑い)。
この記事は、私のために書かれたものかと思いましたけど、私のように、また、ここに記されたような方は、必見ですよ \(^o^)/
そんなわけで、以下に、全文掲載させていただきました。・・・いつもだけど(笑い)。
『論 ――日蓮仏法の視点から 第17回 自己への信頼
関東男子部教学部長
幸福の要因を他者や環境ではなく、自分自身に求めるといった論調が、日本社会に受け入れられつつあるように感じる。外ではなく、内なる改革に発展の鍵があるとの視点は、仏法の思想に通じる。一方で、自分自身を変えたくても変えられないことで悩む人が多いのも事実だ。本稿では、仏法の「依正不二(えしょうふに)」の哲理を通し、自分を変えるために何が大切なのか、考えたい。
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新入会員に通ずる視点
今日(こんにち)の創価学会では、池田先生が築かれた世界広布の潮流が一段と大きなうねりを見せている。衰亡(すいぼう)の一途をたどる日顕宗とは対照的に、学会は192カ国・地域にSGIの同志が誕生。人間勝利の絢爛たる平和と文化が強固になり、2013年11月の広宣流布大誓堂の完成以降は、世界各地の同志の来日も増え、歓喜の波動が広がっている。
文化も風習も異なる海外メンバーは、学会のどのような点に共感し、入会したのだろうか。多くの人に共通する答えとして、「誰にでも無限の可能性がある」 「あなたも変わることができる」 「自分が変われば環境が変わる」 などの言葉が挙がるという。実際に、日本の座談会と同様に、 「あきらめない自分になれた」 「心が強くなった」 「職場の人間関係を改善できた」 など、 「自分が変わった」 ことで 「環境が変わった」 体験を話す人が多いそうだ。
私自身、学会活動に励む中で、そのことを実感してきた一人である。
もともと、人の輪の中に入ることが苦手だった私は、中学時代、部活動もやらず、自宅でテレビゲームに没頭していた。口数が少なく雰囲気も暗いため、友人は少なかった。いじめにもあった。
充実感のない、むなしい日々。大学に進学するも状況は変わらず、いつしか「つまらない大学が悪い」と環境のせいにして、やり場のない思いをどうすることもできなかった。
そうした最中、出会った学生部の先輩の振る舞いに衝撃を受けた。先輩は素直になれずにいた私の可能性を心から信じ抜き、 「御本尊に祈って行動すれば、必ず状況は変わるよ」と何度も励ましてくれた。
さらに 「友人の幸福を祈ろう」 と促され、はじめて“人のため”に題目を唱えた。活動にも参加し始めると、徐々に自然体で人と接することができるようになった。1年ほどたった時、友人から言われた。 「随分、明るくなったね。変わったよね」
気付けば、学校にも学会にも心から信頼できる友がたくさんいた。自分が変わったことで、生活環境が一変。信心の功徳を実感した体験だ。
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依正不二は希望の哲学
「依正不二」 という仏法哲理がある。行為の主体である 「正報(しょうほう)」 と、その依(よ)りどころとなる環境・国土の 「依報(えほう)」 は一見、別のものであるけれども、実は分かちがたく関連している、という法理である。
御聖訓には 「依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもって此れをつくる」 (御書1140㌻)とある。
依正不二の教えは、正法と依報が密接不可分(みっせつふかぶん)な関係であるがゆえに、自分自身の生命を変革していくことで、自分たちを取り巻く環境や国土を変革できることを現す。つまり、自らの幸・不幸が環境や他者の存在に左右されるのではなく、 「自分が変わる」 ことで、幸福を実現できるというのだ。
そして理念だけではなく、現実にこれを実践する方途として、日蓮大聖人は御自身の仏の境涯を御本尊として顕された。ゆえに私たちは、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱題することで仏界を湧現し、どんな困難をも克服しゆく強い自分を築くことができる。悩みに直面した時、他人や環境に要因を求めるのではなく、自分に何ができるのか、自分をどのように変えられるのか、その視点に立って行動するからこそ、解決の糸口が見いだせるのだ。
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同じ過ち繰り返す背景
近年、出版不況がささやかれる中で、 『嫌われる勇気――自己啓発の源流 「アドラー」 の教え』 (岸見一郎・古賀史健著、ダイヤモンド社)がベストセラーになった。同書は、周囲の世界がどうであれ、自分が変わることで、周囲を変えることができると説明している。 「人は変われる」 「誰もが幸福になれる」 とのテーマへの強い共感が、好評の理由の一つであろう。
ただ、逆を言えば、それだけ今、多くの人々が、 「変わりたいけれども変われない自分」 を自覚し、悩んでいることの証であるといえる。
何度も同じ悩みの壁にぶつかる。やってはいけないと分かっていても、同じ過ちを繰り返してしまう――。こうした、 「変わりたいけれども変われない」 原因はどこにあるのだろうか。
精神科医の岡田尊司氏は “愛情飢餓(きが)” の問題を挙げる。人は愛情が十分に注がれない環境で育つと、自己肯定感が低く、自分を大事にできない。自己への信頼が乏しいため、自分の可能性を信じられず、自らが幸福になるための行動を起こすことがなかなかできない、と。
さまざまな見方があるにせよ、 「変われる人」 と 「変われない人」 の根本的な違いは、自己への信頼感の強弱ではないだろうか。
「自分は変われる」 「無限の可能性がある」 と信じることなくして、自身を変えるための行動は起こせない。つまり、自己への信頼を強めることこそ、変わるための大きな一歩だといえよう。
だが、自己への信頼感が低いことを、真っすぐに見つめている人は少ない。そのことをごまかし、自己を飾り、多弁で他者に攻撃的になったり、反対に自らの殻にこもったりして、自分でも自分のことが分からなくなっている。幸福になりたいのに素直にそれを認められず、行動を起こせない人が多いのだ。
大聖人は、自らの行動で幸福になる可能性を閉ざし、不幸へと進んでしまう生命の傾向性を 「元本(がんぽん)の無明(むみょう)」 と洞察された。
「無明」 とは、根本的な迷いであり、万人に仏の生命が具わることへの不信である。つまり、元本の無明とは “人間の根本的な可能性を否定する”働きなのである。大聖人は、この無明とどのように戦い、打ち克(か)つかに焦点を当てられた。
御書に 「妙とは法性(ほっしょう)なり法とは無明なり無明法性一体(いったい)なるを妙法と云うなり」 (708㌻) と仰せの通り、無明といい、法性(仏性)といっても、その体は別のものではなく一体であるゆえに、無明を打ち破ってこそ、法性の力が現れる。
その闘争に勝つために必要なのが、御本尊への 「強き信心」 である。そして 「強き信心」 を促す存在こそ、師匠であり、学会の宝の同志である。
また、 「行学の二道にはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化(きょうけ)候(そうら)へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」 (御書1361㌻)とあるように、御本尊への信は 「行学」 の行動となって表れる。
「行」とは、唱題や折伏など自行化他にわたる具体的な実践、 「学」 とは教学研さんのことだ。 「行学たへなば仏法はあるべからず」と仰せの通り、単に信じるだけではなく、具体的な行学の行動を絶やさないことが正しい信心の在り方である。
行学の二道に励むことで、功徳の実証が厳然と現れ、御本尊への信はますます強まる。そして自己への信頼が高まる。信行学の実践という哲学があるからこそ、学会活動への挑戦を通して、 「自分が変わる」ことができるのである。
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自分の胸中を制覇して
本年は全国各地で 「創価青年大会」が開催されている。私は20年前、 「千葉青年平和文化祭」 に出演したことが、大きな原点となっている。
“人がどうかではない。一人の弟子として、折伏の結果で師匠に勝利をお届けする! 自分が文化祭を成功させてみせる!” との決定(けつじょう)した一念で祈り、本気で戦った。文化祭は大成功。抱えていた悩みを乗り越え、大きく成長することができた。
今再び、私は創価青年大会で、かけがえのない尊き同志と共に、新たな弘教拡大と人材輩出のドラマを起こしていく決意である。
池田先生はつづられている。
「想像を絶する艱難(かんなん)をも、 『法華経の兵法』 で勝ち切って、何ものにも微動だにせぬ自分自身を鍛え上げるのだ。この勝利また勝利の自分に即して、壮大なる栄光の環境が出来上がっていくのである、全部、 『依正不二』 だ。自分の胸中の制覇が、全ての環境も勝利させていくものである」
この師の叫びを生命に刻み、私たち関東男子部は、自らが “敢えて挑戦する” との 「敢闘精神(かんとうせいしん)」 で勇敢に戦い、あらゆる艱難(かんなん)を乗り越えて、邪悪を打ち破り、栄光の 「11・18」 を完全勝利で荘厳してまいりたい』
(2017年9月6日付 創価新報 教学のページ)より
私は、関東ではないし、男子部でもありませんけど、『自らが “敢えて挑戦する”』、この心意気で、自己肯定を上げていきたいです。
“愛情飢餓(きが)”
『人は愛情が十分に注がれない環境で育つと、自己肯定感が低く、自分を大事にできない。自己への信頼が乏しいため、自分の可能性を信じられず、自らが幸福になるための行動を起こすことがなかなかできない』
身内から、よく似たようなことを言われてきました。
「ハピちゃん達(弟がいるから)から、お父さんが、お母さんを独り占めして来たから・・・」とか。
この地区へ越してきて、相談した時も、当時の地区婦人部長にも、そう言っていただけました。
気にもしていなかったし、思いもよらないことでしたので、ある意味、ほっとしました。
ぶっちゃけ、言われるまで、そんなこと、気にしたことはなかったですけど、他の人からも言われるようになって、「あー、そうなんかなぁ」って。。
だけど、今回、この創価新報の記事を読んで、「そうやったんや」って、思えた時、逆に、「ぢゃあ、おやじも、そうやったんやろうな」って、心にストンと、落ちました。
おやじ(熊本県出身)も、幼少の時に、父親を「ガン」で、亡くしています・・・母親(一昨年亡くなりました)は水俣病でした――。
で、だからこそ、私が、この両親のもとに生まれたんだなって ^^
法華経は、「褒めて伸ばす」、とも聞いたことがあります。
両親を、弟を、褒めて伸ばして、元本の無明を晴らして、入会させたい! この決意で行こうと思います。