ACIM(奇跡講座)をやっているつもりである。

とはいっても、テキスト編、マニュアル編は
かろうじて1度通読したけれど、
365日分あるワークブック編は
レッスン200ちょっとあたりで止まったまま。

まじめにACIMに取り組んでいる人から言わせると、
こんなチンタラした取り組みはやっているうちに入らない、
と言われそうである(苦笑)。

まぁ僕の感覚としては、
ACIMが中心というよりも、
僕の導き手の差し出すものを
素直に感謝して受け入れる、
というほうが近くて、
僕の導き手がそっと差し出した書籍が
たまたまACIMだった、ということだ。

ただこの本、前にも書いたかもしれないけど、
僕の常識感覚でいうと、人間が書ける本ではない。
この世界では、あり得ない本で、
この本が僕の人生の物語に出現してくること自体が
奇跡だと思っている。


A Course in Miracle(奇跡講座)というタイトルの割に、
内容は奇跡っぽくない。

奇跡という言葉だけで捉えたら、
ボタンをピッと押したら、呪文をムニャムニャと唱えたら、
世界がバラ色になる、みたいな話だったらいいのに、
そんな話では全然ない。

地味、地道、論理的、堅実、硬派!!、
という形容をしたくなる。
それも、これにまともに取り組んでいると、
ほぼ間違いなく葛藤を感じることになる。

誤って私が信じたこと、望んだことが、
「それ、違うよね?」
「それ、真実じゃないよね?」
という感じで見せつけられることになり、
そこで動揺する(感情が動く)ので、
結構しんどく感じることも多いはずだ。

でも、真実ではないことを、
真実だと思い込み続けることもできない。
いずれは真実を選択せざるを得ないのだから、
早かれ遅かれ、それは体験することになる。
必要なことが起こるだけなのだから、
無駄に抵抗するよりも、
素直に間違いを認めるほうが得策である。
..と理性が言っても、なかなか素直に
受け入れられないこともある。
それもそれで仕方がないし、
落ち着いて腰を下ろしてじっくりやっていくしかない。


ACIM,奇跡講座自体、
僕的には素晴らしいと思っているが、
なかなか硬派な本だし、
入門書や解説本も、
奇跡講座の本筋と違ったことが書いてあることがあり、
なかなか薦めるに薦められず、みたいなところがある。

でも先日友人が、
「奇跡講座入門は?」
というので、久しぶりに少し読み返してみた。




この本の著者のワプニック先生は、
ACIMの正当な継承者的な方。

その方の講話を本にしたものなのだが、
奇跡講座の本筋的なところが分かりやすく書かれており、
まずはこの本から入れば間違いないと思う。

自分自身、久しぶりに読んで、
改めて「なるほどなぁ~」と思えるところがあった。
#というより、ちゃんと読んでいなかっただけだろうが...(^^;

P.122~123あたりの投影の話である。

自らの内にある罪悪感を、自分自身で見ることは難しいが、
その罪悪感を他人に投影すること
(つまり他人を悪者と捉えること)
によって、はじめて、
自らの内にある罪悪感を見ることが出来るようになり、
それを赦し訂正する機会が得られる、という話だ。

この3,4年あまり、
自分以外の誰かを悪者と感じた時には、
それは僕が「悪い」と言って指さした誰かが悪いというより、
むしろ自分の内に持っているものに原因がある、
というところは確かに意識してきたのだけれど、

そのように説明されると、目の前に現れる他人はすべて、
僕が赦し訂正するための機会を与えるために現れた
ありがたい人、と捉えることができる。
なんだか、すっきりした。

#「いままでそれ、わかってなかったんかーい」
#という突っ込み、ごもっともです。おはずかしい...(^^;


僕は、けっこう犠牲者感覚が強くて、
他の人のことを
「僕に無理難題を押し付ける悪人」
みたいに感覚化していたことが多くて。

今もそれが治ったわけではなくて。
未だにそういう感情が沸き起こることはしばしばだし。

だから僕は自分のことを、
奇跡講座を読みながら、
傷ついた(と思い込んでいる)感覚をリハビリしているんだなぁ、
などと思っているのだけど。

言葉で語ってくれることはないのだけれど、
さりげなく僕をそういう道に導いた「誰か」の優しさには
感謝してもしきれないなぁ、
と思うのです。