前回は雄略天皇についてでした
では仁徳天皇はどうでしょう
(Wikipediaより)
万葉集には仁徳の時代に
詠まれた歌はありますが
自ら詠んだ歌はありません
磐姫皇后が仁徳を思って作った歌
4首のうちのひとつ
「君が行き日長くなりぬ
山たづね迎へか行かむ
待ちにか待たむ」
あなたが行って日数が経って
迎えに行こうか待っていようか
こんな風に思われたいですね
しかも
巻四には
仁徳の異母妹である八田皇女の歌
「一日こそ待ち良き
長き日をかく待たゆるは
ありかつましじ」
1日なら待ってられるが
長く待つのは耐えられないと
兄を慕うというよりも
仁徳に恋焦がれていると説明がありました
皇后だけでなく
他の女性からも好かれるなんて
イケメンだから?
人としてできた人?
日本書紀での仁徳は
「天皇 皇后に語りて曰く
八田皇女を納れて妃とせむと
のたまふ
時に皇后聴したまはず」
八田皇女を召し入れたいが
どうだろう?と皇后に聞いたが
許しは得られなかった
そこで仁徳は歌を詠んで
頼み込みます
「貴人の 立つる言立 儲弦
絶間継がむに 並べてもがも」
高貴な人か言うには
弓を絶えまず引くために
予備の弦を持っておきたい
皇后は
「黙して亦答言したまはず」
黙って返事もしなかった
そらそうなりますわな
皇后が切れた(死んだ)時のために
予備(八田皇女)を持っておきたい
なんて
2人に対しても失礼です
恋多き天皇の印象です
8年後 仁徳は
「皇后の不在を伺ひて
八田皇女を娶して宮の中に
納れたまふ」
妻の留守をいいことに
八田皇女を宮中に迎え入れました
なかなかやりまなぁ
それを聞いた皇后は
「大きに恨みたまふ」
「遂に奉見えたまはず」
誰だって怒りますよ
そして皇后は5年後亡くなります
その3年後
「八田皇女を立てて皇后としたまふ」
仁徳からすれば
想いを遂げたことになります
母が違うとはいえ
兄妹で正式に結婚したのです
この時代だからのことでしょうねぇ
古事記においてはどうでしょう?
「大后 豊楽せむと為て
御綱柏を採りに
木国に行幸し間に
天皇 八田若郎女に婚ひき」
皇后が宴席のため柏の葉を
紀伊国に採りに行ってる間に
八田皇女に会った
フムフム 日本書紀と類似
「大后 大きに恨み怒りて
其の御船に載せたる御綱柏をば
悉く海に投げ棄てき」
皇后は怒って
採った柏の葉を全部棄てたと
よっぽど腹が立ったんでしょうねぇ
そのまま帰らず
山代へ入ってしまいました
その後
皇后と八田皇女は山代で和解をします
日本書紀は怒ったまま亡くなりますが
古事記では和解をしています
仁徳は八田皇女以外にも
黒日売や口姫にも歌を贈っています
今なら女性にだらしないと
非難されるところですが
皆 仁徳のことが好きなんです
例えば
国見のときに
家々から煙が出ていないことから
民は食べるものに困っていると気づき
3年間の税を免除しています
聖帝といわれる所以です
仁徳は
記紀ともに仁徳時代に
詠まれた歌が最も多く
仁徳自身が歌う歌
仁徳のことを歌われる歌も
最も多い
それだけ慕われる天皇像が
浮かび上がります
前回の雄略と比較すると
雄略は
多数のライバルを倒し
多数の妻どいをした英雄であり
仁徳は
磐姫をはじめ複数の女性に
そして民に愛された聖帝だった
主体的に皇位継承争いをした
能動的な雄略
あくまでも辞退をしながら
即位する受動的な仁徳
対照的なお二人でした