キリストを人間と解釈すると見誤る。

そして本当はとてもシンプルなんだと思う。









天平の甍を聴きながらやっぱり決心した…翌日とんでもない悪夢を見たけれど、それは多分決心を後押しするものだった。毎回気づきを頂ける不思議。

 

 

 

 

気づけば今日は高橋巌先生とルドルフシュタイナーの命日。

 

高橋巌先生もこのブログをもしかして読んで下さっていたのではと思うこともあった。講義の内容がリンクしていて…でも、多くの方がそう感じられるようなそんな優しい有難い講義でした。

 

 

しかしいまだ人智学の全貌を理解しているわけではない。経験から理解したい派かもしれないので、遅々としすぎている。

 

 

キリストについては、エドガーケイシー先生は優しく解説してくれるので、同時代に、ヨーロッパにシュタイナー、アメリカにエドガーケイシーが存在したのは面白い。エドガーケイシーセンターの光田先生は、講義で、キリストの存在は宗教を超えているとおっしゃっていた。

 

 

「オイリュトミーの本質」という、ミヒャエルデーブス先生の論文をある方に昔いただいたのを今読み返したりなどしていたが…。

 

 

昔、オイリュトミー修行をしていた頃、ある美容室に飛び込みで入った。美容師さんが、髪を切りながら、「踊りをされている方ですか?」と。「いいえ、全然していません」と恥ずかしくて咄嗟に誤魔化したが、「そうですか?僕は職業柄たくさんの人と接するので、時々、パッと来ることがあるんですけどねぇ。それじゃあ、何か楽器をされてますよね。ピアノですか?…ピアノもだけど、ハープじゃないですか?」と。

 

ピアノはともかく、ハープはあきらかに弾いていなかったが、オイリュトミーとは、もともとギリシャ語なので、ハープもギリシャのイメージだし、この美容師さんはなかなかすごいなと思ったのだった。

 

 

 

数年後、エドガーケイシーのある本に出合った。キリストのことについてのことだったけれど、その本の珠玉は、キリストの最期の晩餐の場面のエドガーケイシーのリーディングにあった。その場にいた人たちの意識状態がそのリーディングを実現したと言われているが、その場面の最後はこう締めくくられていた。

 

 

「主はまた音楽家でもあった。

ハープをお弾きになるのだから。」

 

 

 

 

それでミヒャエルデーブス先生のその講義の冊子を思い出し、引っ張り出したのだが、読んでみたらその最後にこうあった。

 

 

 

 

「人智学が「人類にキリスト再臨の準備をする」と言う課題を持つならば、オイリュトミーは芸術としてそれと同じ課題を持つのです。〜〜〜再来しつつあるキリストは、オイリュトミーを行なっています。」

 

 

 

 

 

 

 

ではキリストの本質は何なのか。

 

 

 

 

 

 

高橋先生。シュタイナー先生。

どうか…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人間の都合が世界を覆っても、

地球は春を忘れない。


人間が作った条件だ。

私の身体はあきらめない。






君よ


それでも、前へ。