創造主は、

圧倒的な自由を私たちに与えたもうた。

 

どんな醜悪な悪にでも転ぶ自由を。

どんな至高の善にでも成れる自由を。

 

だから、

 

悪であることを許しているのではなく、

悪に転ぶ姿を前にして、

 

ただ、

口をつぐむ時があるのだと思う。

口をつぐんで待つしかないのだと思う。

 

私たちの、

自由を侵さないために。

 

 

だけれども、

 

 

口をつぐんだ神の前に、

私たちが悪として存在を許されたとしても、

本当は私たちの良心は、

それを見逃していない。

 

よく奥底を見てみれば、

そうではないでしょうか。

 

例え開き直ったとしても、

その、奥底に。

 

自分の中のマグマが、

悪として表出するか、

善として表出するか、

選択は私たちの手にある。

 

これが、

私たしが実は神である証拠だ。

 

奥の院は、

私たちの魂の中にこそある。

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・・・・。

 

 

 

 

 

インターネット越しに、

私たちは一体何をやり取りしているのだろう。

 

惹かれるということは、

反発するということでもあるのか…。

 

ぷぷぷのぷ。

(ナニソレ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

筆ぺんで書いている場合じゃないで。

やっぱり日本的なるものを少しでも勉強したいな。

身体として。

 

 

 

・・・・・・。

 

 

 

早緑の

ことのはじめの

風をいざ

身に乗せて行け

身の果てるまで

 

 

 

身一つと

風の起こりを

辿るれば

 

 

 

 

 

 

 

辿れば、

ではなく、

辿るれば、

にしたい衝動があるのだけれど、

古語としてありなんだろうか。

はぁ

勉強やなぁ。

 

 

 

 

 

 

俳句が空間的だと、

昔聞いたけれど、

その意味がわかってきた。

 

 

 

七七を待っている。

 

どこからともなく聞こえてくる、

その、聞こえない七七を。

 

 

 

余白。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

甘えと言えば甘えだけれど、あらゆる意味において、無い無い尽くしの時も、心細い時も、疲れて出来るか不安な時も、通わせて頂ける場もまた存在している、というのはありがたいなと思う。また思いがけないタイミングでスイッチが入ったりする。この前はそんな日だったという考察。


余裕ができたらいくらでもお返しさせて頂けるという余白があることのありがたさがあるということでもある。


何でも数字に絡め取られてしまう時代に。