日月神示を少し調べてみたけれど、膝を打つところあったり唸ったり身につまされたり反省したり色々な感想が湧き上がる。霊についての様々な事柄はちょっと苦手な分野だけれど、霊や神でさえも、自分で審神者せよということが書いてあって、本当にその通りと思った。

 

昨今何だか、神の振りをした悪魔にやられている人が多いと思う。ここ数年霊能力がある(ことを隠していたりするらしいけど)とか色々偶然なんだか会う機会等があったけれど、本当に霊能力というのは必要なのか?と考えさせられることが多かった。どうして気づいたかといえば、こういった力を持つ方々の様子が、「自然」ではないので、目についてしまう。

 

そんなわけで、何かががあっても、この人にこう言わせている背後の力の流れを感じ取ろうとする癖がついてしまった。これはこの人自身の言葉なのか、誰かに影響を受けているのか、知らずに、力の流れに影響を受けているのか。

 

例えば、誰かが菊の花に着せたあるイメージが、その「場」において、その場を共有している人に作用していくように。

 

真の犯人が、目の前の、目立って損な振る舞いをしている人ではないことも多いにある。

 

まあ、巧みな人もいるもので。しかし、彼らも自分の物語の中で、正義を貫いていたりする。だけれども、蓋を開ければ自分の欲が見せる幻の世界だったりするんじゃないかなぁ。自分の世界を完結する為に人を排除するのはよろしくないよねぇ…。

 

実〜にくだら〜ん。

と、他人事として断罪してしまいたくもなるけれど…

 

神は罰しない。

だから罰せない。

 

 

 

 

火が、私たちを適度に温めてくれ、熱を与えてくれるものであると同時に、全てを破壊し、やけどを負わせる炎となるように、神も悪魔も表裏一体で、全ては阿弥陀の表れであることにおいては平等なのである…

 

個人にできることは、神的に在ろうとするのか、悪魔的に在ろうとするのか、力の使い道を自分に問いかけることしかない。

 

心の動きを見てみれば、一瞬一瞬、神か悪魔かの選択肢が、無いようで、ある。人生において、実に鍛えられる。言葉、動作、感情、その一瞬一瞬。イライラする相手や尊大な相手に対して。疲れた局面において。打ちのめされた局面において。

 

 

 

 

霊や神を降ろし、人をも導く力を持つことが大事なのではなく、

 

 

 

 

阿弥陀の表れとして、目の前の生を一歩一歩生きることなのだなと、思う。