なんだか熱にうかされて書いてしまったもので、誤解があるとちょっとあれかなと思いましたので、自分の中で弁明いたします…(ちょっとしょんぼり)。

 

輸入の仕方を間違えた思想というのは、輸入して頂いた方、のことではなく。

 

人智学の高橋巌先生の講義を一定期間受けていたことがあるけれど、本当に勉強になったし、とても勇気を頂いた。ある日、どこか改まって、私は講義を受けてくれる人達を大切な友達だと思っている、とおっしゃったことがあって、それは本当にそう思って頂いているんだというのが真実の言葉として伝わってきました。

 

90歳を過ぎても講義に勢力的で、町田から電車で吉祥寺まで通われるている。駅から会場まで、とてもゆっくりと、いっぽいっぽ歩いて行かれるお姿を何度か拝見しましたが、天候の悪い日も、先生の歩く姿が脳裏に浮かび、高橋先生がお休みにしないのだから、受けに行こうと思えた。

 

言葉というのは、それが発せられた背景や、その人の状態、さらには受け取り手の問題、という様々な要素が絡み合って意味をなしていくのだろうと思います。だから、すべては自分の鏡である、という言葉も、そうとも言えるし、そうとばかりも言えない。カルマの問題が、個人や団体や国や地球、色々なカルマが混ざり合うように…そんな感じでしょうか。

 

人智学はあくまでも、「わたし」の問題で、いつでも個人から始まる、ということをとても強調されたいらしたと思います。ある思想の悲劇があるとするならば、それが個人にとっての思想ではなく、団体や組織、国、の為のものとされる時、個人に刃を向けるものに変わることがある…。それを危惧しておられたのでしょうか。

 

 

 

 

 

…というわけで(どういう訳?)、今日はもう眠いのでこの変で取り敢えず…。