何かこう、もう暮れから3ヶ月位経った気がするけれども、復調に向かいつつはある。微熱が出たり咳が出たり痛みが全身に散らばったり色々しているけれども、何だろうそんなに悪い感じはしない。どうかな。

 

みそぎ…?

…ぷぷぷ。

 

去年コロナに罹った後遺症のひとつが、本が殆ど読めなくなったこと。でも今年は出だしからこのような事態だし、買っておいて読んでいなかった本を読んでみるかということで読んだのだけれども、これがとてつもなく面白かった。

 

そもそもなぜ私は武に惹かれるのか、など色々思うところがあった訳なんだけれども、何と全く関係が無いかと思える本にその答えの一端があり。

 

それは、萩原朔太郎「恋愛名歌集」

 

ちょっともう萩原朔太郎を兄さん!と呼びたい感じです。ほんとに。朔太郎兄貴によれば、万葉集、古今集、新古今のかなりの割合は恋愛に関する歌なので、恋愛とつけてもつけなくても同じことだが敢えて付けたということ。

 

とても感動したのは、万葉の人々の自信にあふれた様だった。単純明解。明朗。素直。豪快。自信。壮大。直情傾向。小細工なし。かつそれでいて恋には繊細。ある名も無き武人の歌には兄貴と共に完全にノックアウトされました。朔太郎兄貴によれば、時代が過ぎ、それはやがて、国粋主義の島国根性へ凝縮され、その代表歌集が、古今集ということになってしまうのであるが、いやもう言われてみればほんとに。

 

まあ、作者が朔太郎なんだから朔太郎の熱と文章力にやられているといえばそうなのかもしれないが、最後に別の人の解説が載っていて、それが私と朔太郎兄貴の感激ポイントとずれているところもあるので、やっぱり、私と兄貴は共通していると思う。

 

ある女の人が、私は右翼でも左翼でもなく自翼と言っていて、上手いなと感心したもんだけれども、私も右翼も左翼もわからない。両翼なければ飛ばないんだからどっちも必要なのか?位しかわからないんだけれど、どうも日本人をダメにする概念が、宗教とか思想とか教育とかの形を借りて植え付けられたり、あるいは、輸入の仕方を間違えて、じわじわそれにやられているんじゃないかと、これは前から思っていたんだけれども。

 

例えば、今すぐ思いつくところだと謙遜することとか。最近のだと、周囲は皆あなたの鏡です、とか。置かれた場所で咲きなさい、とか。因果応報とか。いかにも最もらしく頭良さげで綺麗で大人としてまとまっている感じはあるんだけども、何と無くうさんくさいところもある。

 

結局島国根性が日本人の本音と建前を生んだのかとか。時に創始者の意に反して、立場が下の者にだけ謙遜だとか謙譲だとか倫理だとか和だとかを強要する、解釈と使い道を間違えられた思想とか教育とか宗教とか国家権力とか。こういう誤った考えで、どれだけの日本人が自虐して自殺に追い込まれているんだろうか、と予々思っており、自分も餌食になっとるなと思っていたけれど、朔太郎選出の万葉集を読むにつけ、

 

もともと当時の人々は天皇から一般庶民まで、自分自身であることに、自分の存在に、こんなに誇りと自信にあふれていた人達だったのか!と。

 

また、朔太郎兄貴は、万葉集以降、海洋の歌が無くなったと嘆いているが、それに関しても昔から思うことあり、日本人の身体性はよく農耕と結びつけられているようだけれど、確かに途中から農耕民族的にはなったかもしれないけれど、もともと狩猟とか海洋民族的身体性の方が主流だった時代の方が長かったのではないかなと…。自信は無いが、だけれども、海洋民族的気風が、万票集にはある。

 

万葉以降、兄貴の言葉を借りれば、島国根性的身体性になっていき、今その底辺に来てしまったということなんだろうか。

 

実は去年あたりから、自分の中で、日本人に植え付けられた間違った思考、というキーワードがあって、勿論それをしなやかに乗り越えている方も多くいるのだけれども、この、朔太郎兄貴選出の、古代の人々の言葉に触れ、自分の中の何か深いところが呼び起こされた感じがし、かつそれが、武に惹かれた理由のひとつと結びついた感じです。

 

 

 

 

ただ、解説の人が適度に冷静なので、自分も少し頭冷やしてもう一度読み返してみようかとは思う。ぷぷぷ。

 

本当はもっと直情的に言いたいことはある気がするんだけれどひとまずこのへんで…。