本物の商売人は、経営論よりも何を扱っているのかという業態を大切にする人だと思う。

社会との関連で業態が変わろうとしている今、そうも言っていられない状況なのかも知れない。

私の仕事は、印章を製作して販売するという職商人だとの自負がある。

いろいろな機械、とりわけコンピューターが入り、安価に早く、大量生産も可能となると、どんな業態でも職人は追いやられる。

それを受けた印章業界も本物の職人が高齢化し少なくなった。

今の印章業界の商売人は、自動彫刻機があるので、職人を必要としない。

ですので、技術に固執することはなくなった。

柔軟ともいえるが、基軸を無くしただけである。

だから、印章にこだわらず、他の商材を用いても商売はできる。

本物の職人はそうはいかない。

経済全体は、コロナ前を取り戻したとか景気の良い業態もある。

しかし、印章業界を取り巻く環境は劣悪である。

ついこの前まで、「デジタルと共存」などと今の業界を忖度した持論を展開されていたブログなど

どうなっているのかなと、のぞき見してみたら、大半はストップしている。

そればかりか、無くなっているものもある。

じぇじぇじぇ・・・

ビックリポンだ。(懐かしい)

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当時、「政策に賛成」とする在り方を批判すると、「貼らなければ」とご意見をいただいたポスター

もちろん、貼りませんでした。

 

今はお亡くなりになられた京都の重鎮Nさんに嘗て(かなり昔に)お聞きしたことがあります。

私「消費者庁へのクレームから、機械彫りと手彫りについての議論があり、「手仕上げ」という言葉を作ろうとしていますが、どう思われますか。」

N氏「きちんと対応することは大切だが、彫り方を定義する必要はない。職人がやりにくくなる。そういうことには政治力も働かせて対応すべきことだった。大げさにやり過ぎだ、あいまいさも必要。」

と述べられた。

「手仕上げ」という言葉が独り歩きして、職人が意地をみせているのか?「完全手彫り」という言葉さえ生まれている。

彫り方に翻弄されて、本物が見えにくくされている。

その責任はどこにあるのだろう?

それこそ、あいまいにしていいのだろうか?

反省のないところに、新しさを塗りたくっても、次は見えてこない。

彫ることに固執するより、そのデザイン性のクオリティーを追求する。

(他者のデザインを用いて、いくら上手く彫れても、他者のデザインだ!)

 

苦労して身に着けた印章技術は残したい。

私も印章技術を用いたデザインを商品化しようと家内とともに齷齪しているが、固体としての印章からソフト(印章のデザインとしての役割)を残したいと強く思うよになった。

印章デザインのクオリティーを求めるブログの人は、まだ少数派であるというより、2~3人だが健在である。

影響しあい頑張りたい。

これからもよろしく。

本物の技術はそこにある。