ほらごらん猛暑日なんか作るから

【作者】中原幸子

 

 

29日の土曜日は、健康診断の日。

血圧が思いもかけずに高かった。

140を超していた。

血圧があがるようなことが、この7月にあったせいだろうか。

血圧が高いのは家内の専売特許と思っていた私だったが、家内に言うと、最近は血圧が落ち着いているらしい・・・少々ショックな日だった。

昨日その家内は、猛暑の中、友人と京都に行きはりました。

残された私は、仕事量調整は思い切ってやめて、店に来て冷房を効かせ、ちめたいお茶を手元に置いて、先達ての民藝展の図録を眺めたり読んだりと私なりの休息をとりました。(何故か、店が落ち着きます・・・。)

 

私は作務衣が嫌いです。

作務衣は職人の正装だから、それを普段から着て、冠婚葬祭にも出る覚悟がある方はカッコイイ!生き方だと思います。

江戸火消の半纏は仕事着であり正装です。

半纏に染め抜かれた「いろは」などの加護字(かごじ)のデザインは粋なものであります。

しかし、ハンコを彫る職人の作務衣には、嘘が多いように感じ、勝手な解釈なのですが気恥ずかしさを通り越して嫌味な感じを持ってしまいます。

しかし、普段はそんな恰好で仕事をしないのに、イベントなどのパフォーマンスとして着たりするのには「職人」の普段の姿からの乖離があります。

好き嫌いでいうと嫌いです。

 

中印連の競技大会の審査講評を書きました。

そこに「手仕上げ」という彫刻方法の在り方を書かせて頂きました。

(フォントを修正、または手書き文字を機械で荒彫りしたものを手で仕上げる彫刻方法を「手仕上げ」という概念で規定されている)

中印連の競技大会は「手仕上げ」可能の競技会です。

彫刻技術を習い始めた方が手で彫っても、概念としては手彫りです。

今回の競技会の上位者は、おそらく機械を使い荒彫りして「手仕上げ」した人が多いと審査して思いました。

足では彫れないだろうが、手で彫ろうが、機械で彫ろうが、彫った印影の優劣がモノを言うのが作品だし、即印章の商品であるはずです。

競技会では評価基準がない印相体は評価されません。

業界の競技会や展覧会で金賞や大臣賞をとるためには、普段印相体ばかり彫刻していても競技会式の篆書を使わないと入賞できません。

そこでは一生懸命にその文字を模倣するのに、店の仕事は「開運吉相(印相)体」です。

何かが違うだろうと、昔から思っていました。

これは、開運書体の事を非難しているのではありませんし、私も下請け時代の仕事のほとんどが印相体でした。

競技会などの美からほど遠いものを販売していて情けない、自分の美観とは違うものを彫刻しているという嘘がありました。

だから、社会との接点が出来ないし、消費者は美しい印影よりも概念としての「手彫り」という彫刻方法に惑わされて、どれが良い印章なのか判断の材料を失います。

印章技術と社会との接点がないのです。

そういう意味で、今の印章技術の在り方はイベントやSNSでのアピールとし着るパフォーマンス衣装としての「作務衣」と同類だと思ってしまいます。

自分の修練が即商品価値として生きてくる業界であって欲しいとは思うのですが・・・。

だから、「修業がいかされない業界」「技術を学んでも仕事がない」などの声をよく聞きます。

最近では、苦労して1級技能士資格をとったのに廃業を決断せざるを得ないという悲鳴に近い声も届きました。

業界の外から模索することの方が、学べるし楽しいと思ってしまう今日この頃です。

 

 

技術とは人寄せ看板だけなのだろうか。

私が美しいと思って日々楽しく、時には悩みながら文字構成を考えての印章が、それが美しいと思うには由縁がります。

目指している美しさが自分の中にあります。

それは、中学生の頃、美術の教科書にあったルネッサンス期のラファエロ・サンティの『大公の聖母』という聖母子像の絵画との出会いからです。

それが、印章の美とどう関係するかの説明は追々と・・・。