クロカン:昭和の黒田官兵衛 | 団塊世代の"愚考にため息"

団塊世代の"愚考にため息"

ふと思い出す過去の出来事と後悔。次々と、浮かんでは消えていく愚考を書きとめていけば、いつかはネタ切れになるはず。きっとその後は、良き日々の思い出だけが浮かんでくるにちがいない。

東大安田講堂が落城し、その後大学民主化の動きがピークを打ち、国際反戦デーが動員力を失っていく頃、学生たちには「いかに負けるか」というキーワードが浸透していきました。

右肩上がりでもりあがっているときは、国会周辺へのデモを煽るリーダーは、美学を持っていました。「機動隊の最も厚い壁を突破する」ということでした。デモ隊は出発する前に各闘争委員会の代表が決意表明をマイクで叫びます。その中で、本日のデモの大義や、どこで何をするかなどを公表します。周りでは公安や機動隊・私服の警官が、聞いています。デモ隊は発表どおりの行動をとり、目標となった地点には機動隊の厚い壁ができ、そしてデモ隊は壁に向かって何回が突破を試み、その過程で先頭の何人かが検挙されます。殉教者のようなものです。守りの手薄なところをねらうテロとは違います。デモの解散地点では、総括のアジ演説があります。そこでは、厚い壁を粉砕して一定の成果を上げたことを発表し、その際に不当検挙された仲間が何人いたとかが報告されます。
検挙された仲間は、2~3週間でキャンパスに戻ってくるのですが、その間に後継者が育ちます。それを繰り返していくことにより、お勤めを何回か経験した筋金いりの戦士が次々と養成されました。そして戦いが踊り場を迎えると、次を目指して、いかに負けるかという総括に入りました。

当時、気が付かなかったことは、負けをコントロールすることでした。100回戦って100勝はないのですから、1回の負けですべてを失わないようにリスクを分散するこという考え方がありませんでした。バブルの時もそうでしたが、いつかはハジケルと知りながら今ではないと、思っていました。

損切りは、日和見主義として拒否されました。今思えば、学生の後ろにいたクロカンが、打率3割で殿堂入りすることを選ばなかったのです。彼らの仲間にデイトレーダーがいて、活動(運転)資金をたとえばM作戦ではなく投資で稼いでいたら、歴史は変わったかもしれません。