物事に対して考えられる選択肢は限定的である | 団塊世代の"愚考にため息"

団塊世代の"愚考にため息"

ふと思い出す過去の出来事と後悔。次々と、浮かんでは消えていく愚考を書きとめていけば、いつかはネタ切れになるはず。きっとその後は、良き日々の思い出だけが浮かんでくるにちがいない。

つい最近まで、「可能性→無限」「未来→無限」を疑わずに暮らしてきました。
立ちくらみがするようになってふと気がつきました。

無限の可能性というのは、案件なり課題に取り組むときに時間と選択肢がかなりある環境をいうのではないかということです。昨今、やっと知恵がついたというか、リスク優先のためというか、物事に対して考えられる選択肢は限定的であることを自覚してきました

結果がどうなるかは、やってみなければわからないというのは営業マンの定型的な理屈です。手持ちの限られた原資(ヒトモノカネと時間)を使って、いかに損をしないように取引するかという場合に、選択できる策は有限で限定的です。お上の組織なら前例主義にのっとり選択肢は前例の範囲内にとどまります。

あれもこれもではなくて、これは必要かという秤にかけると、ますますスリムになっていきます。結局、無限の可能性というオーバースペックをやめて、自分にとって必要なスペックに絞り込んでいくという暮らし方が現実的で間違ってはいないような気がしてきました。