マスメディアの諸君の発する雑音に悩まされず | 団塊世代の"愚考にため息"

団塊世代の"愚考にため息"

ふと思い出す過去の出来事と後悔。次々と、浮かんでは消えていく愚考を書きとめていけば、いつかはネタ切れになるはず。きっとその後は、良き日々の思い出だけが浮かんでくるにちがいない。

長い間、事務系サラリーマンとして、日経新聞を購読することに疑問を持ったことはありませんでした。ビジネスマンとしての基本的な知識を蓄積し自己啓発の原資になると確信してこの新聞を購読してきました。ようやくインターネットの環境が安定し、PCでいつでもどこでも知りたい情報に触れるこができるようになり、紙媒体に100%依存することがなくなりました。

対象を電子媒体に切り替えることで発生するかもしれない不都合についての不安は、紙媒体と同様にコストを払って入手するということで希薄化しました。すぐに、紙媒体が必須ではないことを学習し、不安は和らぎました。そして次には有料媒体からも距離をおくようになりました。

若い頃は、バスに乗り遅れないように情報収集に時間と手間とカネをかけました。今では、電源をいれると洪水のように流れ込んでくる情報を、取捨選択しその有用性を評価する時代に変わりました。情報収集よりも、情報を評価する作業が重要になり、そのためのコストがかかるようになりました。

早朝ゴミ出しでマンションの廊下を歩くたびに、新聞がポストに差し込まれている戸数が減っているのが気になります。購読世帯数が確実に減っています。近頃では、熱心な新聞の勧誘もめっきり減りました。

経営幹部が新聞を購読していないという米国の某小売チェーンでは、新聞広告をやめたそうです。もちろん、新聞の発行部数が減少し廃刊に追い込まれているという新聞業界の現状が媒体価値の低下を証明していますので、新聞広告をやめ別の媒体を選ぶのは合理的な意思決定と思われます。

新聞購読をやめてゴミの量も減りました。その分テレビを見る時間が増えたかというと減りました。では、情報量が減ったかというとそうでもなさそうです。


おかげさまでマスメディアの諸君(小沢先生風にいえば)の発する雑音に悩まされず、自分なりの生活を楽しむことができそうです。