途中からなので
下記☟
”これまで”を
お読み頂けたら
嬉しいです
はじかれ者中学生3人が『禁忌の石段』の謎を解くミステリー小説
道を覆うアスファルトは劣化し、ひび割れもずいぶん目立つ。両側からは山の木々が迫り、陰鬱な影を作っていた。
あと、三百メートルくらいのところで、矢儀は、小学生みたいな奇声を上げる。
「うおおっ、何だ、あれ?! 石碑か? 説明板もある!」
(☝ここまでが前回)
「石碑なんて、今、関係ねぇじゃろーが!」
背後から、兼行が怒鳴るが、無視だ。矢儀は、サドルから尻を上げ、全力で自転車をとばした。
広い路肩に、石碑と説明板は建てられていた。すぐ奥には、未遠川が流れている。上流とあって、川幅は十メートルくらいしかない。
矢儀は自転車を降り、まずは石碑の正面に立った。なかなか年期が入った代物だ。土台の平らな石は黒ずんでいて、一部苔も付いている。上に乗った歪な長方体の石は、縁の劣化がかなり進んでいた。
中央に掘られた字を読む。
「分水……記念碑、か?」
三歩前に出て、背後の未遠川を覗き込んだ。
ちょうど碑の下あたりに、流れを二つに分ける石組みがある。奥側は高低差があり、流れも速い。手前側は、高低差がなく、ゆるゆると暗渠へ吸い込まれていく。
矢儀は続けて、石碑のやや後方に建つ説明板と向き合った。
こちらは、近年作製されたものだろう。アルミ枠に納まったアクリルの説明板には、読みやすい清書体文字が並んでいる。
背後で、織田村が説明板を読み上げた。
「この分水工は中世鎌倉時代の遺跡である。水量の多い未遠川の、度重なる決壊を防ぐために、また、水不足の高台へ農業用水を引くために、水流を二手に分けた。しかし、分水工も、未遠川氾濫の抜本的解決にはならず、江戸時代中期には、さらに上流から、高台に向け派川を引く治水工事が行われた。これ以降、未遠地域の浸水被害は大きく軽減される。また、高台に引かれた派川は、その後、戦後開拓の地となった鷹野台へ水路を伸ばし、今に至る。なお、これらの偉業を後世に伝えるため、大正十五年に碑が建立された。未遠自治会」
※「高野台」の漢字表記を「高野台」から「鷹野台」へ変更します
文中には”高台”※周辺よりも高く平らになっている土地のこと
も出てくるので
訳わかんなくなってきますよね