僕たちはなぜ、

「自分らしく生きよう」と思った先で、
いつの間にか誰かと競争してしまうのでしょうか。

不思議なことに、
そうであるまいと思えば思うほどに
同じ争いの只中に立っていることになります。



先日はOMSのリアル講座で、
密教的な時間を過ごしてきましたので、
KhronosでもMentoring Program の最上級コースから順番に深いところを共有していこうと思っています。

今回、少し一緒にみていくことについて、
ある人はこんなことを書いています。


 
人間の深いところで、ビジネス、政治、経済、スポーツ、芸術、そして愛までもを理解する鍵だと確言している。もしお金を稼ぐことがあなたにとっての最大の原動力であるならば、それに役立てることもできる。あるいは、お金や名声や快適な生活はいちばん欲しいものではないと気づくのに、年を重ねる必要はなくなるかもしれない。
(『欲望の見つけ方: お金・恋愛・キャリア』ルーク・バージス)


僕たちが誰かと競争してしまうのは、
誰かが欲していたものを、
無自覚に、これは自分の望みだったと思うようになるから。


これは自分で選んだ道だ、

誰かの真似なんかじゃない、と。

けれど、外から見ると、

とても奇妙な光景が立ち上がっています。

誰かと同じものを欲しがり、

同じ方向を向き、
同じ場所で立ち止まり、

同じところで疲弊していく。

これはなぜなのでしょうか。

不思議な現象です。



ここで問うべきは、
欲しいと思ったものは本当に、

自分の内側から自然に生まれてきたのか、ということ。

それを問うたとき──
多くの場合、
そうではありません。


いつも先にあるのは、何か。

それは、関係です。

 

ジラールの発見は物理学におけるニュートン革命のようなものだった。物体の運動を支配する力は関係の文脈のなかでしか理解できない。欲望は重力のように、ただ一つ、あるいはただ一人のなかに独立して存在しない。それは両者のあいだの空間に存在する。(同上)


誰と、どこで、
どんな空気の中にいるのか。


誰がそれを価値あるものとして扱っているのか。


その振る舞い、その視線、
その場の緊張感。

誰かがそれを欲しがっている。

誰かが手に入れたことで評価されている。

その空気が、関係の中に満ちていく。

すると人は、
理由を説明できないまま──

「あれは価値がある気がする」

「なぜか惹かれる」

「自分も欲しい」


と感じ始めます。

ここまでは、
まだ問題ではありません。

むしろ、
人が人として生きている証でもあります。

僕自身も未来を提示し、
言葉を発し、それに共鳴した仲間を集めることをしています。



善なる意図から価値観の共鳴を、
誠実さを持ってやる分には何も問題ありません。

関係の中で欲望が立ち上がるのは、

むしろ自然なこと。

問題が起きるのは、
ここからです。

人は、その欲望が
「関係から生まれたものだ」という事実を観ることができません。


代わりに、こう解釈します。

これは自分の内発的な欲望だ。
元々持っていたもの、育ててきたもの。

自分はオリジナルな選択をしている。

このスコトーマ(心理的盲点)が、

ミメーシスを競争へと変えます。

なぜなら、他者もまた、
まったく同じ勘違いをしているからです。

自分は自分の人生を生きている、
自分は自分の欲しいものを選んでいる、
と思っている。(思わされている)

けれど、外から見ると、

他者が欲しているものを、同じように欲している。


 
ひとは、欲望を客観的なものであるとか主観的なものであるとか思っているが、実際には、それは事物を価値あるものにしている他者に依存している。
(『サタンが稲妻のように落ちるのが見える』ルネ・ジラール)


他者が向かう方向へ、
同じ速度で向かっている。

自分では他と違うように生きているつもりなのに、
実際には、欲望の隊列の中にいる。

この反転に気づかないまま進むと、

流れはほぼ自動で決まります。



欲望を模倣し、

欲望を競い、

欲望が衝突する。

競争が起きるのは、

性格が悪いからでも、

意志が弱いからでもありません。

関係そのものが、
欲望を形づくることが観えないから。

出会いの一つ一つが、双方の欲望を強めたり、
弱めたり、もしくは欲望を別のものに向けさせたりする。

 
多くの人間関係が模倣の絆によって結ばれている。コーチに目をかけてもらおうと競う選手たち、役職を競いあう同僚たち、輝かしい履歴書をつくろうとする学者たち。
横徴による緊張は、おおむね健全な人間関係、たとえば配偶者間、親子、同僚間においてさえ存在する。親友との関係も模徴に染まっているかもしれない。


これが厄介なのは、

本当の原因が観えないことです。

だから、
人は対象や他者との差異化に執着していく。

そして競争は激化し、

どちらかが勝つか、

どちらも疲弊するまで終わらない。

これが、
ミメーシスが無自覚なまま進んだときの帰結です。

逃げ場のない「関係性の檻」の中で、
お互いがお互いの欲望をコピーし合い、
再帰的に増幅させ合っていく。

ここで起きているのは、
欲望の自発的だという勘違いが、
不可避な競争のトリガーであり、
それが逆説的に没個性(あべこべ)な現象を生んでいくという事実です。



ちょうど一年前に
ピーター・ティールに絡めて書いていました。
分かりやすいメッセージは
「成功するためにパターンはあるが、フォーミュラはない」(ピーター・ティール)ですね。

欲望を持つこと自体は避けられませんし、
関係の中で生きる以上、それは自然なことです。

その欲望をハッキングする方法が天才たちがやっていることでした。

キーワードは、
このブログでもよく出てくる「解像度」であり「物語」です。

その前提となるのは次元の移動であり、
視座の転換です。

ではでは、今回はこの辺で。

また次回の記事でお会いしましょう!
Khronos / The salone|Hiro

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