高校無償化制度適用が事実上決定、しかし警戒も必要 | 朝鮮問題深掘りすると?

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初老の徳さんが考える朝鮮半島関係報道の歪み、評論家、報道人の勉強不足を叱咤し、ステレオタイプを斬る。

扱うタイミングが少しずれましたが、高校無償化制度が朝鮮高校も適用去ることが事実上、決定したようです。5日、高木義明文部科学相が記者会見で、「(民族学校=朝鮮高校の)具体的教育内容を見ることなく、授業時間などの項目が基準に合えば高校無償化の対象に含める」と基準を発表したのです。朝鮮高校の授業時間などの項目が基準に収まることはすでに明らかですので、事実上朝鮮高校が無償化の対象に含まれることになったと言うことです。しかしこんな当たり前なことを決めるのに半年以上も時間を使うとはあきれ果てたものです。

3月以来じりじりと伸ばしてきた高校無償化対象に朝鮮高校を含めることがやっと実現したわけです。これによって朝鮮高校に通う学生も一人あたり年間12万円の政府支給金を受け取ることになりました。無論4月にまで遡及して支給されます。


この問題は日本社会の奥深くにとぐろを巻いている民族差別意識がいかに根強いものかを良く見せてくれました。実際、この問題は論議の余地なくスムースに決定されてしかるべきものでした。


一体何が決定を遅らせたのでしょうか?4月1日にこの法が施行されようとするや、他の外国人学校は対象に含みながら、朝鮮高校だけが除外されると言うまったく話にならない事態が生まれました。その理由は「歴史教科書に反日的内容が含まれている」「拉致問題が解決されていない」「日本の教育と似た教育をしているのか確認できないので除外すべきだ」などといった常道を逸した反対論が噴出し、これに押された政府が朝鮮高校を含むかどうかの決定を見ないまま見切り発車をしたのです。


正当な理由にあたらない、言わば暴力団並みのけちを付けた挙句に、決定を遅らせたわけです。

しかし国連の勧告など国際社会のつい批判世論と当事者である朝鮮高校の学生や学父母、在日コリアンの民族教育を理解し支持する広範な日本市民の絶え間ない努力が、日本政府の及び腰に釘を刺し、ここまで持ってきました。国連人権委員会は児童の教育を受ける権利を、外交問題と結びつけるべきではないと警告し、日本政府が全般的な外国人および民族的少数者の教育を受ける権利を、より誠実に保護すべきだと勧告もしました。


また在日朝鮮人は差別と弾圧のなかでも解放後今日まで自らの力で学校を建て、守り、一貫した民族教育制度まで打ちたて、大学入試の権利の獲得までたたかってきた歴史を通じて培ってきた力を発揮し、自らの手で高校無償化制度適用の権利獲得のために果敢に行動しました。


この間の動きは日本社会に根付いている差別意識、差別構造を打ち破る果敢な闘いを通じてのみ、日本市民と同等の民主主義的権利を獲ることができると言う歴史的教訓を得ることができたことでしょう。そしてその闘いは、常に日本の民主主義的市民との共闘に依拠すべきだと言う教訓もです。


しかし、もろ手を挙げて喜んでばかり入られないでしょう。高校無償化適用が、そのまま差別の解消を意味してはしないからです。現に今回の決定にしても「授業内容が反日的だ」と反対する議員らの指摘に対し、「留意事項の一つ」だと認め、学校当局に「自主的改善」を促し、「政治、経済などでは日本の教科書の使用を要請する」と答弁しているのです。もちろん「留意事項」に強制力はないといいますが、それが民族教育に干渉し、否定的影響を与える余地は残ります。さらにその「留意事項」の適用をめぐり外交問題を口実に政治的性格の弾圧と干渉もありうることです。


つまり高校無償化制度の適用が、日本政府の朝鮮学校政策が変わったことを意味してはいないと言うことです。解放後これまでの日本政府の在日朝鮮人政策を一言で言うと「差別、監視、排除、同化」の4つの言葉で言い表すことができますが、在日朝鮮人が民族性を保ちながら堂々と日本人社会の中で市民として生きていく道は常にこの4つの言葉とぶつかるほかないというのが現実は変わらないのです。大阪の橋本知事のような輩が堂々とファシズム的言動をはばかり無く取ることのできる雰囲気、情緒は噴出前のマグマのようにまだ十分に残っています。


そしてそうした現実は日本が過去に犯した歴史的犯罪に対する真摯な謝罪と償いが行われない限り、無くなりはしません。日本の社会全体が過去の加害の歴史を直視し、覚醒し、世界の普遍的常識に達しない限り、また人為的に作り上げられた理念に基づく日本社会の在日朝鮮人に対する根深い差別意識を克服しない限り、日本政府の在日朝鮮人政策の根本的転換は期待できないでしょう。


解放後の在日朝鮮人の歴史を振り返ると、現在在日コリアンが行使している民主主義的権利のどれひとつをとっても日本政府が自ら積極的に与えてくれたものでありません。それは歴史が証明してくれています。つまりどれひとつをとっても先人たちの粘り強い闘いの結果なのです。今回の高校無償化問題もやはりそれにもれるものではありませんでした。在日朝鮮人は生きるために闘うしかないのです。これも歴史の教訓ではないでしょうか。