足に大怪我をしてリハビリを終えたばかりの子どもがスキー合宿で長野に行くと言う。
学校の定例行事とはいえ、どうなのだろうか?

「怪我が回復したとはいえ、無茶ではないでしょうか?ありえないことではないかとさえ思います。」と細君に告げる。

医師の診断も昨日、終えている。
骨はきちんとついているし、無理をしなければ大丈夫とお医者さんがおっしゃっているとのこと。
「辛いリハビリにも耐えて良く頑張りました。運動機能も高く、普通にできますよ。」とおっしゃっていただいたと・・・。

「それでも、心配ではないんですか?スキーですよ。」と言うと
「一博さん、親は、見守るだけですよ。」という言葉が返ってくる。

「ここで親が辛抱することが大切なのではないでしょうか?親とすれば、どうしても心配ですから杖を作ってあげたくなります。私も、本当に心配です。でも子どもが転ばないようにと杖を親がつくったらどうなるでしょうか?杖の先の杖、またその先の杖。霧がありません。」

「私もとても心配ですが、ここは一緒に耐えましょう。」と繰り返し言う。

 この後、今季初めての首相との国会論戦となる予算委員会質疑もある。心配事は少しでも減らして集中したいところだ。しかし、それは親の都合であって、心配事を抱えても集中するのは、私の務めであり責務だ。

 迷ったような顔をしていたのだろう。

「もし親が作ってくれる杖に子どもが頼るばかりになったら、そちらの方がよほど心配です。自分を守ることも、転ばないように「杖」をつくることも、この子が自分で行うことです。ここで辛抱しなければ、この子は、自分で杖を作れなくなるかもしれませんよ。」と細君。

 理屈では、そうだし教育論としても正しい。もう反論する言葉はない。

「お父さん、大丈夫ですよ。それにね、私、スキー初めてでしょう。とても楽しみにしていましたから。一緒に行って自分だけ滑れないなんてつまらないなと思っていましたから。」と下の子。
 (九州では、今でこそスキー場に行く人も少なくないが、それでも本州程ではない。)

 スキー初めての子が大けがの後に行くのかとやはり心配になる。

この子のように怪我をして合宿におけない子どもは、居残って副校長先生と授業を受けるらしい。それもかわいそうだなとも思う。

 3日後、子どもが帰ってきた。まだ帰りたくなかったとも言っている。何のことはなかったという顔をしている。

どんな「杖」を自分で作ったのだろうか?見守るだけ・・・。親の忍耐について少し勉強した気がした。そして自分の子どもの時のことを思った。随分、無茶をした。無茶と言うよりも無謀と言った方が正しいかもしれない。それでも親は黙ってみていてくれた。