今日は、佐賀市立城南中学バレー部OB会があります。

 日本一を目指して日々の練習を積み重ねていた日々のことを思い出します。
 入学直前に城南中学は火事で焼失したために、私たちは、赤松小学校の校舎を借りて授業を受けていました。部活動にも多くの困難が伴い、バレー部の練習もその例外ではありませんでした。
 お隣の本庄小学校の体育館が私たちの練習場でした。

 困難は結束を強くするものですね。
皆で支えあい、カバーしあう気風が生まれました。
今でも毎年、集まって付属中学との親善試合などをしています。

 「良いもの、突き抜けたもの」を知り、素晴らしい人たちに学ぶ。
 城南中バレー部監督の山田義美先生は、その点でも少しの妥協もない方です。連戦・連勝で「無敵」の私たちは、次第に練習相手にも困るようになっていましたが、当時、同じく日本一を目指していた佐賀北高校や佐賀商業高校に胸を借りて練習をさせていただいていました。

  ミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得した松平全日本の玉拾いもしていました。そこでの松平監督や横田選手、森田選手らとの出会いは、何ものにも代えることができない珠玉の経験でした。

 伸長、150㎝そこそこしかなかった私に、森田淳悟選手が「あなたは小さいけども、ネットの上に肘まで手が出たらエースになれますよ。」と励ましていただきました。

 圧倒的な体格差を理由にバレーを諦めるしかないのかと思っていた私は、森田さんのこの言葉に救われました。超一流の選手と言うのは、自分だけでなく多くの人達を励まし、温め、育てるのだと本当に有難く思いました。憧れの選手が直接、声をかけてくださるなんて、なんと幸運だったのでしょう。

 私は、あの日のことを鮮明に覚えています。政治家とならせえいただいた後も、森田選手のように子どもたちに励ましを言えるようにと努力を重ねてきました。

 その後、総務大臣時代に松平監督と森田淳悟選手が大臣室をお尋ねくださり、当時病床にあられた山田先生にもお励ましを頂戴したことは、かつてブログにも書かせていただきました。

 「あの時のおちびさんが原口さんなんですね。」ととても感激してくださったのに二重の喜びを感じました。

 厳しい練習は、朝から夜、遅くまで続きました。
2年生の時の背番号は、12番でした。12人しか入れないベンチの最後の一人でした。同じ学年からは、横尾(嘉)君と渡瀬君が正選手で出場。全国3位の栄冠をつかみました。
 私は、初めて立った東京体育館でおしぼりを皆に出し、記録をつける仕事でした。
 その後、3年生が部活を引退されると私は、私は、背番号5番をもらい佐賀市大会、佐賀県大会ともに正選手として優勝しました。これまでの大型選手のそろった先輩たちから見ても私たちは、とりわけ小柄でした。山田先生は、ミニ全日本とまで言われてクィックを多用するチームを諦めて2,2,2の守備を重視したチームで再び、全国を狙おうと決断されたようでした。

 その後、同級生たちの背が伸びて私は、背番号5を大津君に明け渡し背番号7をもらいました。 

 私は、結局、補欠と正選手を行き来しましたがチームは優勝候補筆頭とまで言われるような強力なチームに変身しました。惜しくも準々決勝で優勝した神奈川の向ヶ丘中学に敗れベスト8でした。

 一度も負けたことのないチーム。その弱さが、全国大会の晴れ舞台で出てしまったと記憶しています。あの向ヶ丘との試合も第一セットは12対6で勝っていました。当時、1セットは15点で終わりでしたから、あと3点が遠い3点となりました。何か見えないものが私たちの足をすくったような試合でした。

 それでもあの時の結束と友情は不変です。 
今日も、山田先生をはじめ恩師、先輩、後輩、そして同級生の懐かしい顔が集まります。