出自についての質問と差別について

インターネットの発展は、さらに加速化して多様化している。様々 な情報が一瞬に、しかも大量に流れるというその特徴から人権侵害 も一度起きれば、それを回復することがとても難しくなっている。 しかも匿名で何の根拠も示さずに質問と言う形で投げかけられて、 その誤った情報自体が自己増殖していく。

私も先日、ツィッターで「原口議員のご先祖は確かコリアンでした よね? 」という書き込みをもらった。この人はどういう意図で質問 をしているのだろうか? こういう人にどう対応すればいいのだろう か?地元の寺にある先祖の系譜を紐解いてそれが事実無根であると 言ってみたところで、また別の問題をはらむ。どんな人なのだろう か?他の人にも同じようなことするのだろうか?

そもそも出自を聞くという行為が何を意味するのか? 「出自というものは、プライバシーそのものであって、他者からそ のようなことを聞かれる謂れもないし、たとえ公人であっても答え る義務はない。プライバシーの侵害という深刻な事態が近年起きて いて、その中には出自に関するものが多くみられる。」 法律家や人権活動家とも議論したが上記のような危機感がとても強 かった。 出自そのものを聞くという行為の背景に潜む差別についてもう一 度、認識を改めて差別そのものの根絶を目指すべきだ。

「答える義務はないと無視をするのが最もいいと言われても、政治 家は、日々の戦いの中にあり、根拠のない出自に関する質問に対し ては毅然として事実を述べるべき。」という意見も少数だがあっ た。 あえて父方の系譜を紐解けば「士族」とある。佐賀龍造寺の系譜、 そしてその後、鍋島につながる系譜。明治維新、帝国海軍、226 事件と父祖の足跡が蘇る。正法寺さま(臨済宗)・陽福寺さま(曹 洞宗)。 そこには南朝の後醍醐天皇の資料が多く眠っている。尊王論。楠木 正成の教えを元に国学者枝吉神陽を中心に組織された楠公儀祭同 盟。江藤新平侯も大隈重信侯も皆、この「佐賀の松下村塾」(この 言い方を私はできるだけ使わないようにしているが知らない人のた めに説明を簡略化するために使った。)ともいわれる楠公儀祭同盟 に参加している。

祖母方の父祖の地は、私が現在住んでいる高木瀬だ。龍造寺、高木 一族の系譜は、この地の統治者の系譜だ。祖父栄四郎の父祖の地は 佐賀県川副町だ。善興寺さま(浄土真宗)の系図を紐解くと「平 民」とある。226事件の黒幕とされた佐賀出身の大将まで辿るま でも無く、こちらは帝国陸軍の軍人が多く出ている。それとともに キリスト者の多い家系だ。同時に先帝陛下にお仕えするなどの者も いて皇室を敬う気持ちが非常に強い。にもかかわらず若い頃の父は 無神論者に近く社会主義的傾向の言が多かったように思える。血へ の反発なのか。建築家の持つプラグマティズムゆえか。わからな い。

美や人間の尊厳を超えたものへの憬れは強く芸術家やキリスト者が 多いという傾向は私の人格の中にも少なからぬ影響を与えている。 同時に警戒すべきはファシズムへの親和性ではないかと考えてい る。

母方は、神埼市の千代田町に父祖の源流がある。こちらの系譜も仏 心にあつい人が多く出ている。母の従兄弟が佐賀における浄土真宗 の大きな柱でもある願正寺様の総代会長などをつとめていた。祖父 の五郎は、その名のとおり五男坊で千代田を出て三田川という地で 農地を開墾して広く梨園を経営していた。その長男は海上自衛隊に 仕官している。農に根ざし地域に根ざし国防を支える。この伝統は 父方も母方も同じように引き継いでいる。広い農地を保有していた のは同じだが、父方には新興宗教に傾斜した者がおり多くの経済的 困難に見舞われている。

これを答えればいいのか? もともと出自を聞くという行為は許されるのか?しかもツィッター という皆がみるメディアで聞いている本人は匿名の壁の向こう側か ら聞いてきている。

20代前の先祖の数は、2の20乗だ。104万8576という数 字になる。大陸や半島との結びつきが強い我が国でこの20代前ま での先祖に、それらの国々の人達が入っていないということが確率 的には稀ではないか。龍造寺は戦国大名だが、その系譜の一部は、 中国にも行きつくという。

世界的な右傾化の流れ。 自己同一性の危機。民族や出自で人を差別する流れは偏狭で醜い。 かつてアメリカを旅行した時にお隣のメキシコまで足をのばした。 陽気で親切なアメリカ人。人懐っこく優しいメキシコ人。カリフォ ルニアの空の様な爽やかな日々だった。しかし、その思いが一変す る経験をした。ある店で「イエロー。ジャップ」と言われたのだ。 あからさまな差別だった。言葉がわからないだろうと相手は考えて いるようだった。

隣国の皆さんを差別する言葉は、あまりにも醜い。そして汚い。

政治家を揶揄したり貶めたりするために「あいつは〇〇だ。」と言 う言葉が溢れている。領土問題についての苛立ちや政権交代への期 待に対する失望などが言わせているという分析もある。

日本は、礼儀の国だ。 和を尊び、他者を尊ぶ国だ。

私は日本人だ。 国の誇りを守る人間は、人を差別しない。 他者を差別する国が、尊敬されるはずがない。

私が切り取った系譜もあくまで私の系譜の一部だ。それさえも私が 選んだものではない。私を規定し、私の自己同一性を補強している ものの要素ではあっても、私に選択肢の余地はない。生んでいただ いた。世に出していただいた。そこにあるものは極めて受動的なも ので積極的な選択はどこにもない。刀を持ち、おそらくは戦国時代 には幾人もの命を奪っただろう先祖を私は好むと好まざるとに関わ らず変えることはできない。

龍造寺本家の家督をめぐる鍋島との「お家騒動」は、「肥前化け猫 騒動」として語り継がれている。龍造寺の遺恨を示すものとしてあ まりにも有名だ。しかし、これとて私から見れば歴史の中の一つの 「物語」であって今更、龍造寺だ鍋島だと騒ぐような問題ではな い。

士族、平民などというのも人がつくった制度であって、人間の深さ や愛情を規定するものではいささかもない。 部落差別のように人が作った制度によって人が人を差別することを 憎む。差別された側に必ず立つ。そして根絶を願い行動する。

人は、平等だ。絶対に差別されてはならない。

遺伝子のつながりを科学的に見ても社会的な人間の存在に思いを馳 せても「出自」なるものが、どれだけの意味を持つか不明だ。

人にレッテルを張り弱い己の自我に醜い化粧をほどこす「差別主義 者」。「民族」の名を借りて他の文化や民族を貶めることは、日本 そのものの品位を貶めることに他ならない。