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新中日簡体字研究 内容4(142ページ) 内容6(144~145ページ)


↓翻譯
合声字母(1900年、王照『官話合声字母』)と簡字(1907年=光緒33年労乃宣『簡字全譜』)が(厳密な意味での)簡体字でなかったので、1910年(宣統2年、明治43年)厳複(または厳復)が資政院特任股員長をつとめたとき、これらを「音標」と呼んだ。
 “簡字と音標と呼ぶ。そもそも簡字と呼ぶのは、繁体字に対して言うことである。簡体字を進めるにおいて、人々にこれが六書の字を廃して拼音にするような表音化をするような誤解を与える意味で、ふさわしくない。これを「音標」と呼ぶことで、漢字の正確な音を表すものであることがはっきりし、音も表わし、六書の字体も表わせるということだ。”

合声字母と簡字が厳密な簡体字ではないので、簡体字の提唱の歴史をさかのぼると、明・清の時代に儒教の教えを受けた人(碩儒経師的)の中に意図的に簡体字を使う人たちがいた。その中で、明末期から清初期にかけての魁儒とされる黄宗羲がまず、代表で、『昭代名人尺牘』の中で『黄氏手札』があり、彼は人にてがみを書くとき、議論の「議」を「言」の横に「」を書いた「言+」という字体にしており、さらに難易の「難」の左を「又」にして、「(應當>)応当」の「當」を「当」にしていた。彼は友である呂留良が彼に送った詩に「俗字抄書從省筆」というのがあり、小さい注釋を入れ、彼が「俗字を書くのを好むのは手間が省けると言う」と述べている。280年前の大儒(大儒学者か)黄宗羲がてがみを書くときに意識的に簡体字を使ったので、呉敬恒は「過去の偉大な学者が簡体字を使って効率を求めているのは見識の高いことだ。古い字体の紋切り型の表現を好む腐儒者には見られないこと」と言っている(144ページ上段)。
↑翻譯

補足
「碩儒(セキジュ)」は大学者の意味(藤堂明保=~あきやす、『学研漢和大字典』1983年、912ページ。
「義」は今の大陸簡体字で「」であり、「議」は「」になる。
「抄書(セウショ)」は「書物を書き写す」「抜き書きをする。またその書物」(藤堂明保『学研漢和大字典』、514ページ)の意味。
現代北京語で「抄」は chao1 である。
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