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新中日簡体字研究 内容3(26~331ページ多数) 内容5(143ページ) 内容6(144~145ページ)


↓翻譯
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第3篇 中国の簡体字 第7章
漢字簡略化運動の發生と發展

第1節 明、清の学者は意識して簡体字を使っていた
中国の近世において簡体字を提唱した変遷として、何応欽将軍が1969年(民国58年)に「整理簡筆字案」を退出しており、その中でこう言っている。

  “我が国が簡体字を提唱した起源は遠く満清末年にさかのぼり、甲午(日清戦争)、庚子義和団の乱)という二つの役(事件)のあと、積極的にこの問題を提唱したのが河北王照で「官話合声字母」を作った。直接には袁世凱、両江総督周馥盛京将軍趙尓巽に仕えた。この主張を実行するため、かつて天津、南京、奉天などに大規模な簡体字学校(大規模之簡字学堂)を創設した。光緒33年(1907年、明治40年)、労乃宣が南京で「簡字全譜」を出版した。民国11年(1922年、大正11年)、銭玄同が教育部国語統一籌備会にて「減省現行漢字筆画案」を提出。民国17年(1928年、昭和3年)、陳光垚が上海で「發起簡字運動臨時宣言」を發表し、中国文字改新学会を組織した。民国23年(1934年)、銭玄同は再び教育部に「捜集固有而較適用的簡体字案」を提出。それで教育部は民国24年(1935年)8月、「第一批簡体字表」324字を公布、その後、戴季陶氏等の反対によって廃止となり、十年余りののち、何人かが提唱してはいるが、具体的な案にはなっていない。”
実際、王照が作った官話合声字母と労乃宣が作った簡字全譜は性質が似ており、注音符号か日本のカタカナに似ており、簡体字とは違っていた。それは漢字の偏旁を取り出し、漢字の一部分を残し、音をあらわすもので、漢字の横に書いて拼音の役割を果たすものであった。(『新中日簡体字研究』143ページ上段)
↑翻譯

補足
民国~年は大正~年と一致する。

籌備 chou2bei4 創設する
籌組 chou2zu3 組織する
複(=復)fu4 再び
于是 yu2shi4 それで


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