ピダハンというのは、アマゾンに住む原住民。
その中に宣教師が訪れ、彼らとの交流を図ろうとする話である。
「言語本能」を超える文化と世界観、というサブタイトル。
8ヵ月間、宣教師は10までの数え方や算数を教えるが、
1+1の計算ができた者はいなかった。
宣教師は彼らとの生活を共にするにしたがい、
彼らの文化を理解し やがて無神論者になっていった。
科学技術が発展し、食生活が豊かになっていく世界において
いまだに昔ながらの文化に生きる少数民族がいる。
文明国からの視点では、西欧文明を取り入れない民族は貧しく、
民度が低く、劣っていると考えがちだ。
この本の著者である宣教師も心の底では、慈悲といいつつも
同様に考えていたに違いない。
文字を持たない進化に遅れた民族であると思い込んでいたと思う。
日本の縄文人においても文字を残さなかった民族である。
そのために考古学では理解度が低い。
文化を理解することは、深い考察が必要であり、
さまざまなアプローチができる頭の柔軟性、哲学的な探索が
できる能力がないと難しいのである。
アマゾンを始め、ニューギニア、アフリカなどには、未だに
原始的な生活を送る部族が残っている。
なぜ彼らがそのような生活を受け継ぎ、脈々と続けるのか?
文明生活に俗された私には、興味が尽きない。
彼らの方がずっと心豊かに生きているように感じられるからだ。
自然と共に生きることに人間という動物の本来の満足感が
あるのではないか?と思わずにいられないのだ。
生きること=お金を稼ぐこと
そして食べ、モノを所有すること。
文明国と呼ばれる国々に暮らす人々は、大方がそのような思考しか
できず、悩みを抱えて生涯を終えていく。
生きることはどのようなことなのか、いや生かされていることは、
という基本的なことすら考えない。食べていくことが生きること。
未開な部族よりは知識はあるかもしれない。
でも生きるための智慧は 待ち合わせていない。
哲学もない。想像力という能力が衰退したのが
文明人に思える。
大自然中で生かされているという感覚を抱き、感謝することなど
言葉では理解しているが、心からの感謝にまでは至っていない。
自戒を込めて思うのだか・・・
文字を持たないのは、言葉で伝えられるからなのである。
聖書、仏典のような膨大な文字にしなくてもよいだけの真理が
そこにはあったと推測する。
体系化しなくても十分に理解できるだけの真理だけを残す。
部族の中で最も記憶力のよいものがそれを伝えていく。