第89話 決まるまでの、もう一歩
借金に追い詰められてから、もうすぐ一年になる。
梅雨の真っただ中。
朝から湿った空気がまとわりつき、仕事を終えて外に出ても、夜になったというのに暑さが残っていた。
この季節になると、和也はどうしても去年のことを思い出す。
今は、個人再生の認可を待っている。
そして、この日は再生計画案の提出期限が近づいていた。
確定した債権額をもとに、これから何年かけて、どのように返済していくのか。
その計画を裁判所へ提出する。
計画案そのものは、弁護士事務所が作成してくれる。
和也がするのは、履行テストの積立状況と、住宅ローンをきちんと支払っていることを示す通帳の提出だった。
ところが、期限が近づいても事務所から連絡がない。
「……大丈夫かな」
気にし始めると、また不安になる。
いつものように、自分から電話するのは少し気が重かった。
それでも、今回は電話をかけた。
「再生計画案の件なんですが……」
事務員は、いつもの落ち着いた声で答えた。
「そうですね。分かるようにメールかFAXで送ってください」
和也は、少し拍子抜けした。
忘れられていたわけではないらしい。
それでも、心の隅に小さな不安が残った。
その後、通帳を持って弁護士事務所へ向かった。
久しぶりだった。
以前は、事務所のドアを開けるだけで胸が高鳴った。
何か問題があったのではないか。
また何か書類を求められるのではないか。
そんなことばかり考えていた。
けれど、今日は以前ほど緊張しなかった。
通帳を渡し、コピーを取ってもらう。
待っている間、事務員と少し話をした。
「結構、時間がかかりましたね」
和也がそう言うと、事務員は苦笑した。
「そうですね。なかなか裁判所から開始決定が出なかったので。でも、開始決定されたので、ここからはスムーズにいくと思います」
「そうですか……」
和也は頷いた。
なぜ、あれほど開始決定まで時間がかかったのか。
聞いてみたい気持ちはあった。
けれど、今さら聞いても仕方がない。
ここまで来たのだから、余計なことを考えずに進むしかない。
「これからは書面決議になります。反対されなければ、決まると思いますよ」
その言葉に、和也は少し身を乗り出した。
「反対するところとか、あるんですか?」
「最近は、めったにないですね。金額もすべてこちらとして認めていますから、大丈夫だと思いますよ」
大丈夫。
その言葉を聞くと、胸の奥が少し軽くなった。
それでも、最後まで何が起こるか分からない。
「認可されたら、その後はどうなりますか?」
「弁護士と面談して、これからの返済について説明します。実際に返済が始まるのは、4、5か月後くらいですかね」
4、5か月。
その先に、ようやく本当の返済生活が始まる。
そう思うと、長かった手続きが、ようやく一本の線につながってきたような気がした。
ただ、和也にはもう一つ気になっていることがあった。
家族に知られないこと。
これまで、何とか隠してここまで来た。
「認可されたら、裁判所から何か自宅に郵送されることはありますか?」
恐る恐る尋ねた。
ネットで見た誰かの体験談が頭に残っていた。
もし家に裁判所からの書類が届いたら。
妻に見られたら。
その瞬間、すべてが終わる。
そんな不安が、ずっと心のどこかにあった。
「いや、それはないと思うんですが……」
事務員の返事は、少し曖昧だった。
「そうですか……」
完全には安心できない。
それでも、今はその言葉を信じるしかなかった。
事務所を出ると、外はまだ蒸し暑かった。
去年と同じような、重たい空気。
けれど、和也の中にあるものは、去年とは違っていた。
あの頃は、どこへ向かえばいいのかさえ分からなかった。
今は違う。
あと少し。
書面決議を経て、認可されれば、ようやくここまでの手続きが一区切りつく。
「……もう少しだな」
暑さの残る道を歩きながら、和也はそう思った。
期待すると怖い。
だから、まだ喜ばない。
ただ、何事もなく進んでほしい。
今は、それだけを願っていた。
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個人再生に直面した40代男性の葛藤を小説風に振り返りました。
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