思念の当体は、だいたい怒りの対象だ。それから注意を逸らさなければ、まちがいなく当体を殺すことになる。理性的であるとは、この、注意を逸らすことによって、正当な破局を回避する意識術でなくて何であろうか。
世間では〈マウントとり〉と言われることがあるらしい。どういうことか最近やっと分かってきたように思うが、ぼくには無論無縁な所作であるので理解が遅れたのだ。そこで、ぼくもその一被害に遭ったことを思い出した。なるほど、ああいう被害に集中して向き合っていたら、加害者を殺すことは必定だろう。ひとは、魂のマウントとりだけは、注意散漫でなければ許さない。つまり殺人だけでなく魂も殺さなければ気が済まない。そういう挑発が日常生活の会話の次元で夥しくあるということは、世の人々の大方がいかに下品かということだ。次から次へと関心を瞬間毎に散らして集中しない生を送っていないと、この世は日常生活から戦争になるのは必定だ。理性には、地から足が離れた理屈が多いと言われるが、そういう注意散漫こそ逆に平和の砦になっているかも知れない。怒りが正当に集中したらそれこそ大砲の引き金を引くことだ。