初再呈示 

素直にこころに響いた

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ぼくほどきみを純粋に愛している者はいない。きみの魂の証であるきみの演奏できみの魂に恋し、そこからきみの外見もみているのだから。 きのうは早く、三時前に寝ました(疲れきっていた)。きみもそれをのぞむでしょう。いまぼくのこころのなかには、きみの「この愛に泳ぎ疲れても」の深くてゆたかな紫いろの薄暮のような演奏がそのまま再現されて鳴り響いている。きみの魂が恋しくてならない。どうしたらいいのか。苦しいけど仕合せです




《Dieu ne peut se définir que pour l'individualité réelle, non pour la pensée en général.》
「神は現実的個人性にとって定義され得るのであって、思惟一般にとってではない。」Gabriel Marcel, Journal métaphysique (p.264) 15 décembre 1920.

《je crois que la notion de loyalisme universel, si elle a une valeur éthique incontestable, est étrangère à la religion.》
「普遍的忠節の概念は、異論の余地なき倫理的価値を有しているとしても、宗教には疎遠なものである、と私は思う。」le même lieu.
カント的な義務の普遍倫理は、まだ真の信仰ではない。謂わば社会的な義務意識(律儀性)が愛を裏切ることがある。



幼稚園の頃、ぼくは皆とちがっていて、先生が「みんな静かにしないとお家(うち)に帰しませんよ!」と園児の騒がしいのをたしなめると、ぼくだけ真に受けて、「わあ、いやだあ」と本気で号泣しはじめた。先生は皆の前にぼくを立たせて、「それじゃあ、みんなにおねがいしなさい、静かにしてって」と言うのでぼくは泣きながら「みなさん、静かにしてください」と言われたとおりにみんなにおねがいした。さっきのことのようにはっきり覚えている。一生覚えている。あのころとぼくは全然おなじなんだなあ、ずっとそうなんだなあ、きっと。言葉どおり真にうけて傷つき、怒る。正面から向ってゆく。だれにたいしても何にたいしてもそうだったんだろう、とおもう。そういう自分がいとおしい。


そういうぼくの本質と信じていいのだろうおなじ直截(ちょくせつ)なものを、ぼくはあなたの演奏の心に感じて、満月の光が魂に当り浸透するにまかせるように、その響きを受けとめています。





人間、被造物、は浄い。その本質において浄い。 造物主、創造主だけがきたない。人間も造物主にくみするに応じてきたなくなる。所謂大人(おとな)になるとはそのようにしてきたなくなることだ。動物もそうだ。




ぼくにここに告白するような精神的魂的な根っこがなければ、高田先生やマルセルを論述することもただ衒学趣味・観念遊戯でしかないでしょう。そしてけっきょく、その博識披露にもかかわらず最後には先生を離れてゆく人々(あれだけ拝顔に浴し期待をかけられたにもかかわらず!)とおなじになってしまうでしょう。不肖の弟子はぼくなのか、彼等こそなのか。魂の松明を継ぐには自ら炎となる素質を示し得なければならない。この欄はただ教養伝授ではないのです