初再呈示 昨日4接続

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ぼくもはっきり自覚していなかったが、全宇宙と全人類の知見に対峙するデカルトは、傲慢ではなく、やはり謙虚なのである、と気づいたと思うので、ここに記しておくのである。対峙する事柄の本質が要求するその態度を、殆ど皆が傲慢と呼ぶその条件反射的な態度をこそ、ぼくは嗤い、凡庸な傲慢と呼び返す。(さすがに小林秀雄などはデカルトの謙虚さを公言していた。)誰でも、デカルトのような態度と覚悟でなければ、哲学はできない。そういう哲学的態度をとる権利は誰にでもある。ただし、実穂のある見解を出せるかどうかは、その者の器量の奥行きに懸っているのである。ここで言う器量とは、真の意識的知性のことである。ぼくはこの意味での知性で、誰にも後れを取らないつもりなのである。これを言う境位は、もう傲慢とか、謙虚とかさえ、他人相手の礼儀のような態度としては問題にならない境なのである。ぼくは、全宇宙と全人類の知見に立派に対峙しうる意識力を持っていることを感じるし、その資格を根拠づける内実をじぶんの内に感じている。(だからぼくの感じること、判断は、怖いのである。これは誰でもそうであることではない。これは臆することなく言っておく。)

 

 

 

 

デカルトの方法は、「人間世界全体を包括的に拒否する」のと同じだと思う。

 

 

 

(何か押さえつけられているなと感じると、反撥が出てくるから、このくらいの倨傲は仕方ない)