最近も書いてきたが、ぼくには創造主と神との相克が手に取るように解る。人間が存在するのは創造主が存在するからだ。デカルトの言う通りだ。ただ、この創造主を神と言ってよいかどうかは、あまりに難しい。ぼくは、神にはふさわしくない、という判断を固持している。神の観念と、創造主の実際の間には、ずれがある。人間は神の観念をどこから得たのか。じぶん自身から、じぶんの精神からだ。人間はこの観念を必然的に思惟する。人間はこの観念とともにのみ在る。そうでなければ人間はじぶんの不完全さを感じることはない。これは皆が知っている神証明の核心だ。だが、この神がこの世を創造し保っていると何故言える? この世は、われわれが内的に感じる神とは別の意志によって造られたとぼくは思う。この意志は、魂にあまりに慈悲が無いから。それなのに人間はこの意志とじぶんの内なる神とを混同することをやめない。これは人間精神の陥穽である。精神に対応する存在そのものが分裂している。隠れたままに。注意力とはそれを解きほぐすことだ。精神が、存在するものならば、神の観念にも存在が対応し、神は存在するだろう。そしてこの神は、創造主と対峙する、創造主の存在とは別の存在である。これが正しい形而上的な思惟のあり方であり、これはデカルトの弁護であると同時に批判であるとぼくは思う。これは人間の思惟の複雑微妙さの問題であると言えば言える。これには個人個人が応答せねばならない。これは理屈の問題ではなく実存の問題である。実存の思惟は何と最高度の緻密さを要求するものであろうか。ぼくには、長い反省と生経験で定着したものがあるので、ここにその本質と思われる点を示した。リルケは、「われわれは遠い神の祖先である」と言った。