去年のものの初再呈示。読めば思い出したが、かなり過去のものだと思っていた。ぼくは、安価な「交わり」を禁止したいのだ。いまに通じるところである。

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これは昨日書くつもりだったが、日課に引きずられて果たさなかった。きょうは日課を放棄して、このことを書こう。高い魂の境位を生きようとする者にとっての二つの問題である:

 

位の高い魂の生を生きようとする(現に生きている)者にとって、「言い返さない」ことは自然な鉄則である。程度の低い者ほど言いたい放題なのは世の常。「言い返す」ことによって同じ土俵に降りることは自尊心が許さない。それはよい。しかし、「言い返さない」ことによるストレスはそうとうなもの。誇りをもって直ちに「言い返した」場合には、じぶんの誇りは保たれ、跡を残さない。多分、これも場合によるのだろう。一般には、言い返すことはなく、ストレスはそれこそ溜まり放題。そこで、高い位階の魂の人間でも、内面的な復讐を考案することになる。低い相手を、人間と見做さないようにする等。それは、いわば客観的にみれば、一見不当な観方に思えるだろう。〈いいところもある〉とか、〈おなじ人間だから〉とか言って。しかし、そのように〈受け入れて〉いたのでは、高い魂の者、純粋な者の、不当なストレスは消えて無くなることはない。こころの内では、低い次元の者たちを、たとえば虫以下と見做してよいのである。高い次元の者に一見ふさわしくないように思えるこの措置は、しかし意図があるのである。低い相手はもともと別の種類の生きものだと観じることによって、じぶんと同等の人間だと思うことから来る無益な煩わしい思いを消滅させるのである。

 

もともと人間は、魂を向く志があるかないかによって二分される。魂を向いていると思っている者〈どうし〉の間でも、本物と偽物がある。

 

 

二つの問題(ディレンマ)とはこれであった:

 

1.言い返さないとストレスが尾を引く。

だが言い返すことは位の高い魂としてできない。

即座に言い返せば跡を残さないのに。

 

2.だから人間を二分して反人間は虫以下とする。

しかしこれを実践すると、すべての人間に意味があるのではない、ということになる。

いいところもあるように見えるから、という情状酌量は通用しない。

 

1のディレンマは、2の方策の人間二分によって随分緩和される。2も、そこまでしていいのか、というディレンマを残すが、「もともと人間は違うのだ」という意識を徹底させるのが意図だということに気づけば、けっきょく相手の言動にたいする不動心を培うための「本気の方便」であることがわかる。

 

 

なにより自分を信じることなのだ。(ただしこの信念をいだくことを誰にでも許していいのかという点を、ぼくはいつも疑問に思っている。)