神の意識  じぶんの路を信じてうろたえない

 

 

直にいま思っていることを書こう。ぼくは、いま、これまで辿ってきた人生の路が、神の望んでいることに沿ったものであるという意識を持っている。神に沿ったものであったから、いままでやってこれたのだ。それなら、これからも、そのように生きてゆきたい。それしかぼくの生は無いのだ。そして、そのような生の意味は、神に沿ったものであるから、消滅することはないだろうと思う。つまりぼくは、なんらかのあり方で、不死だろうと思う。それも、望ましいあり方で。これがぼくの神の意識であり、ぼくを安堵させているものだ。これは愛と調和するから、きみにも喜んでもらえると思う。ぼくの自信は、この信仰と感覚に掛かっている。

むしろ問題は、善意つまり精神的方向への感覚をもっているはずの人間が、しかも実際にその方向へ努力しているつもりの人間たちに限って見ても、どうしてあれほど勘違いと取り違えによって、実際に堕落しているのだろう、ということのほうなのだ。そういう人間たちをいろんな方面で、ぼくはたくさん見てきた。こう言うと、きみはどう思うかわからないけれど、どうして少なくともぼくのようになれないのか、と、いつも割りきれない思いでいる。これは、うぬ惚れではない。ぼくだって外見的には欠点と映ることはたくさんあるだろう。でもそれは本質的な欠点ではない。ぼくはそれを意識しており、ぼくの大事な本質を、ぼくはそれから護っているのだから。
 ところが、ぼくがじぶんの内に意識しているものを、皆、持っていないのだ。しかしこういうことを他に言っても、理解されないし、かえって批判してくる連中ばかりだから、ぼくは普通、勿論、言わない。でも、きょうは、きみにだけ言っている。きみは何か感じてくれるのではないかと思うから。だから、こういうことを言うのは、同時にきみへの信頼の証なのだ。
 

 

神の意識とは、じぶんの路を信じてうろたえないことでもあります。じぶんの路は正しいと思う意識が、神につながります。これがぼくの信仰です。誰のお告げでもありません。ぼくの確信と決断なのです。そして、決断したからには、神への信頼なしには決断は成就しないのです。うろたえないことは、信仰なしにはありえません。そのことをぼくはよく知ったのです。