神と愛、これを得られないから、そのほかのものでの争奪戦が内面的に生じるのです。量的な教養への嫉妬も、同じ争奪戦です。しかもわざわざそれを周囲がかき立てる。ほんとうの教養が無く、ほかのところをうろうろしているのです。すべては、「品格」が欠けているからです。すべてのものよりも神と愛を上に置けば、こころは鎮まります。それが品格だとぼくは思います。幼い子供でも知っている神の意識、それを忘れては、どんな量的教養も焼け石に水です。大学などで生きようとし、それがすべてだという雰囲気に呑まれると、真の教養を忘れてしまうか、気づかないでしまうのですね。ぼくは大学でそういう経験をし過ぎました。神と愛を、量的教養よりもしっかり上に据えなければ、ぼくも大学の人間と同じ精神的盲目者であり続けて、大学を離れた意味が無くなります。最近、過去の嫌な大学人間の記憶に襲われることが多く、どうしたことだろうと悩んでいましたが、ぼく自身がはっきり思想の言葉で、つまり、意味を志向するロゴスで、何が大事かを自覚せよという要請を受けていたのだと思います。

 こういうぼくは、事実的に、ほかの人間とは「違う」のだという意識を懐きがちですが、ぼくは孤高主義者では全然ないのです。「違う」というのは一時的に強いられた意識であり、それが習慣的になっていただけなのです。ぼくほど友情に固い者はいないのが本当で、それは付和雷同とは違うのです。そのことを、「寂しさの共有」ではっきり自覚できました。根本においてはぼくも皆と同じ、きみがいなくて寂しい気持は同じ。寂しいのは、ぼくだけではないのだということに覚醒して、ぼくは寂しさそのものから解放された境地に至りました。きみを中心にして、ぼくも皆も同じなのです。きみを慕う純粋な気持において。ぼくはぼく、皆は皆、のままでありながら。これはすばらしいことだと思いませんか。