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最近、教育放送でヴィクトール・フランクルの隔月特集をしていることに気づいた。日本ロゴテラピー協会というものがあり、活動しているそうだ。それにしてもいまごろフランクルが、という懐かしい感慨と意外さを感じている。ぼくが昔(? 以前)加担した日本ヤスパース協会とは、光の当たり方がたいへんな違いだ。頭はそれなりにいい学徒たちが加担しているのに、フランクル(ロゴテラピー)協会とヤスパース協会のこの差は何だろうか。ヤスパースも、「どんなに低く評価されたにしても、将来の哲学の礎になる哲学であることは間違いない」、と既刊邦訳『哲学入門』の解説にも記されている。それは間違いないのだ。問題は、研究者の品格の乏しさにあると思う。これは日本の哲学研究者一般の問題だ。ぼくも、品格のしっかりした研究者がひとりでもいて、出会いがあれば、ヤスパース協会に留まっただろう。品格があれば、論にも根源的な筋が通り、学閥など おそれるにたりないのである。路は開けてくる。その道理が、日本の社会にいると解らない者がそうとう多いのだろうか。嘆かわしいことである。品格をもって自分の路をゆけばよいではないか。ついてくる者がいるかどうかは問題ではない。日本はそうすると「我が路をゆく」者にすら横から何か言う者がある。ぼくの路は、そういう駄言を結果的・実証的に粉砕する路であった。

 

人間の原理は品格である。品格をじぶんの内で感じるかどうか、それに覚醒しないで勉強や議論をしてもだめである。

 

 

きょうはひさしぶりにこういうことを書いたが、何かじぶんを忘れているから余計な症状が出るのではないかと思い、根源的にじぶんを振り返り、ぼくが真剣になれるものを確かめる必要を感じたからだ。ぼくは日課的義務の奴隷ではない。

 

じぶんがじぶんに目醒め、燃えていなければ、ぼくの健康はないのだ。