ぼくの思索的洞察力というのは物凄いものであり、ぼくはそのままではこの力を誇るという魂の弊害から決して逃れることはなかっただろう。天はどうしたかというと、洞察力の発揮の最大の障碍である耳鳴りを、下手な医師の不手際によって送りこんだ。それ以後のぼくの思索の展開は、それでもなお音楽を求めたベートーヴェンのように、それでもなお洞察を求めるぼくの意志によって無理やり開拓したものであり、ぼく自身には誇るのに程遠いものである。こうしてぼくの洞察力は高まったのか低いものであるのか、ぼくには判断できないものとなった。このようにしてしか、天はぼくの可能的高慢に対処する術が無かったのだろう。それでもぼくはあのフランスで優秀な成績で学位を取った。その地を這うような苦労はぼくだけが知っている。だからぼくがこれを誇ることは、その不断に身を削る努力のゆえに、遂に天も承認するようなものとなったのだと思う。