5か月ぶりに再呈示してよいほど新鮮である。課題を果たしていると言えないじぶんのために 

テーマ:

意外にも初再呈示

テーマ:
 

 

寝る前だから簡略にする。

 

ぼくは近年たいして高田さんの彫刻を紹介しないが、高田さんの文章と思想への感銘と、そこからの感化は別にして、彼の彫刻への出来栄えには、時とともに、感嘆の深化のようなものと同時に、不満もあきらかになっているからである。ただ、日本には、高田さんに悪意をもっている知識人もいるから、そういう者らと高田さんを批判する気はぼくには全く無い。拠って立つ品格と人生志向が全然違うからである。 高田さんそのものの問題に戻るが、まず、日本人そのものに、どんな知性者でも、高田さんがモデルとするには、不足がある。どこかに世俗と戯れている側面があり、孤独が徹底していないからである。つぎに、そういう日本人をモデルとするのは、高田さん自身において、日本的世俗から完全に身を処する潔癖さが、身についていないからである。想念においてはあれほど孤独の深淵を開示する彼でありながら、実際の人間づき合いにおいては、依然としてかなり日本的なものに身を委ねている。日本的なものすべてがいけないのではない。西欧にはないらしい精神の情緒的純潔さを、日本人はもっている。問題は、日本人が同時にもっている日本的人間関係の俗性にあるのである。これは、一言で言うと、無節操な相互介入の傾向のことである。個人の圏を尊重しない。これは日本人の最大の悪徳である。この悪徳の社会的蔓延と習慣化には、個々の日本人の意識そのものに責任がある。高田さんにはやはりフランスに骨を埋めてほしかった。日本人など、どんな親友でも相手にせずに、西欧人になりきり(なっていただろうが)、西欧人をモデルに彫刻に専念してほしかった。彼にはその使命があり、そういう彼の後をこそ、われわれは追わねばならなかった。日本に帰って、日本の料亭に出入りなどしてほしくなかった。彼の思想理念は不滅である。ならば、われわれは彼の実際を、生活においても、作品においても、凌駕すべく努めなければならない。「われわれ」と言ったが、じっさいには、ぼくのほかはいないのである。