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神と向き合う意識生活をしている(それは愛するひとがいるとかいないとかいうこととは関係ない人間問題である)と、出会う事象(人間的であれ自然的であれ)のなかに神のほのめかしを読み取ろうとせざるをえない。そのとき、必然的に直面するのが、神の悪意という想念である。これは直接的想念であって、理由以前に直面するものである。出会う事象による苦しみが切実であるほど、この想念は不可避なのである。すべては根源的に神に関係づけられるのであるから、この不可避性に説明は要らない。人間そのものが超越者に関係づけられている。ヤスパースも、人間(実存)の超越者への関係において究極的・最終的に直面するものが、旧約的ないわゆる「神の怒り」であることを、『哲学』第三巻第三章に明記している。ぼくの「神の悪意」というものも、けっきょく、これに相当する想念であると思う。真剣に神を探求してこれに直面しない者はいないだろう。人間はここで神と対決してはじめて、己れの信仰を摑み取るのだ。おそらく、その時々の状況毎に。 それが、純粋な美的イデアとしての神ではないことは明らかだが、このイデアから派生する如き(天的な)神への問いとも直面するのが人間なのである。そしてこの神に、ぼくはひじょうな悪意を映すようになっている。ぼくの苦しみはそれほど深かったことに、いまごろ想到し、その苦しみの深さを、いまごろ承認しているのである(これまでは、自我意識の強いぼくは、まだ不当に我慢していた)。神への単純な帰依は未だ何の信仰でもない。神との対決をやめないことこそ真の信仰の核心なのである。議論ではなく生活意識において。