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初再呈示

 

初年にたいへんな奥義を書いている 

 

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イデアというものは情熱の根源そのものだ。ひとつのくるおしい感情をもたらすものであり、狂気と言ってもよい。これを根源的な愛というしかない。そしてこの愛は自分が具体的に愛する存在、人、とむすびついている。人間を愛するということは、いつもこういうことなのだ。イデアすなわち神と具体的に愛する存在、人、とが表裏一体にむすびついているこれが、神すなわちイデアが人となったというキリストという愛の存在の意味であるわれわれはいつもこうしてイデアと人とを愛している。神は愛である。彼女の昨夜の演奏の感情の世界にぼくは今朝も生きている。人間の愛をとったら西欧文化になにものこらない。そしてこの愛は直接に神への愛にむすびついている。これがキリストの愛の意味であるどんなに逸脱した現象形態が歴史にあらわれたにせよ、本質の元の意味はそれなのであるなぜならぼくが自分のうちでそれを根源的に感じているのだから。 知りもしないイエスを愛することはできない。しかしイエスが同時にそれであったキリストすなわち神人は、われわれひとりひとりのなかに、人を深く愛することにおいて在るのである。あえていえば、愛する人が具体的に自分にいるかどうかも問題でないくらい、愛することはわれわれにとって根源的な本性であるしかし愛はかならず具体的対象への愛となって〈出現〉する「具体的存在なしには愛さない」。これが愛の実証主義であり、抽象観念とは無縁の、西欧の、キリスト-神とむすびついた人間主義の奥義である。「神と人とをむすびつけうるほどの西欧の実証精神」と高田先生が西欧精神の核心を語る言葉の意味がいまぼくにも開示された。 キリストはあまりに近く、たぶんわれわれ自身よりも近く、われわれのなかに存在する。



ぼくは自分をみつめていればよいのであり、馬鹿(これはほんとうにいる)の相手をすることはない。ぼくの欠点は、自分の「人間の理念」に騙されて、相手にすべきでない者までをつい相手にしてしまうことであるそういう意味ではぼくより〈寛容〉な人間はいないだろう。理念でなく自分の感覚で、処理すべき者は処理(つまり殺す)すべきである。



人が人をその魂のゆえに愛するところに神が在る、触知される、これが西欧の「神」の実証的本質であるとわたしはおもう。


このこととわたしが上に言った〈殺す〉の意味とに矛盾を感じる者はわたしの文を読まないほうがよい。わたしは愛のためにほんとうに怒っている