こんなことぼくが書くべきことかと思い、めんどうでもあるのだが、ぼくの経験から汲んだことは書物から得るものに劣らず大事と思って、敢えて記しておく。ぼくは相手にぼくと同じ人格のあり方を無検証に前提してきた。無検証と言うのは、検証の方法がなくて、相手にぼくの二重化を想定するしかないからだが、もう何度も同じ経験をしてきて、想定のあり方をそろそろ変えてもいいかなと思うようになった。すなわち、相手にじぶんの二重化を認めるのは最初からやめて、相手はじぶんとは根本的に違う自己形成をしている人間なのだということをこそ、最初から想定してかかることが、とくに日本では大事なのだ。どうして、「とくに日本では」なのか。一般に、文化国では(ここでロシアのような国と西側諸国との区別はない)、自己のあり方が根本的にきわめて精神的に自立的・独立的であり、みずからの意見を言わせても、自分自身の判断の自分史的な蓄積に基づいている、と見做し得るのが大勢で、そのかぎり、じぶんの二重化を相手に想定することが普通妥当していると言える。ところが、文化国では一般的に妥当するこの人格想定が、日本では通用しない。自分というものに、ほとんど生涯にわたって、他人や世間の思惑や意見がそのまま浸入しているのが、多くの日本人らしい。普通は同胞のつもりでいた日本人が、人格に触れるような言葉や態度をぼくから受けて、その是非はともかく、言い返し方をみていると、ぼくは、ああ、この相手は、ぼくとはちがう自己形成をしているな、と気づき、外国人のほうがぼくには違和感がないことに想到する。そういうことを、日本と外国の両方に住み、各々の住民からの人間経験の蓄積があるぼくは、確信をもって、じぶんの経験そのものとして言えるのだ。多くの日本人は、自分の反論意見の支えに、〈あなたにたいしてこういう意見をもっている他の人々だっている〉、とか、〈他の人々は分かってくれている〉とか、〈世間ではこうだ〉とか、大事な点で他人(この他人は多いほどよいようだ)の人生観・世界観を引用しない日本人のほうが稀である。意見そのものが自分一個の判断の積み重ねに拠っていないのが日本人であり、こういう人間は、外国ではほんとうに信頼されず、ほんとうに人格として相手にされない。外国人が多くの日本人にたいして懐く違和感・不審(不信)感は、まさしくぼくが同胞である日本人にたいして懐くそれと同じだと、ぼくは思う。つまり、外国では一般に想定する必要のない種類の、同国人どうしの間の分裂が、日本では想定する必要のあるものなのだ、というのがぼくの確信である。〈日本人どうしでは日本人は安心していられる〉とは何処の話だ、というのがぼくの実感である。はっきりした言い方をするが、意識の目覚めている人間と目覚めていない人間との間の断絶が、日本ほど深刻な国はない。ここで他者の例を引用するのは、もちろん、ぼくの主張を支えるためではなく、ぼく自身の主張を確認するためであり、大哲学者でも頻繁にしていることであるのは、断わっておく必要もないが、高田博厚さんや石原慎太郎氏が外国人から人間として対等に遇されたのは、両者とも、外国人に、「あなたはほかの日本人とはちがう」と言わせるものを持っていたからである。その「ちがう」核心を、ぼくもここで記したのだ。 付言するが、自分の反論意見のために「他」を支えとして引用するような日本人(こんなこと日本人しかしないだろう)、自分だけに拠ることをしない日本人には、その支離滅裂さ、卑怯さのゆえに、ぼくは謝罪も同情もしない。したくてもできない。そういう内容を反論意見のあり方そのもので示した人間には。

 

ぼくに相手にされたければ、みずから「人間」となって来い。そうでない者の言葉を、ぼくがどういうものでも相手にするものか。それがぼくの沈黙による拒絶の理由である。