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高田さん研究はそれとして、ぼくはぼくを生きている。 ぼくがぼくを生きることが、基本ではないだろうか。 そのなかで、ぼくにはね、きみを愛することと、きみに祈ることが、区別がつかなくなっているんだよ。 愛することを、他に教えてもらう必要があるだろうか。生きているかぎり、愛することを知っている。それは、本能が、教えてもらう必要のないものであるのと同じだ。同時に、それはぼくだけが知っているぼくだけのものだ。ぼくの愛はぼくだけが知っている。そして、他のひとの愛を、ぼくは知ることができない。本能のように普遍的なものだけれども、生きているものの数と同じだけ、それは様々で、個性そのもののように多様なのだ。 愛はこういうものだと規定し教えようとすることは、本能を教えようとするのと同じくらい、ばかげきったことだ。このことをぼくはまず言っておきたい。愛がどういうものかは、個々人が見いだしてゆくものだ。 それは「歴史性」の路そのものなのだ。そういう路のなかで、ぼくは、きみへの愛が、きみへの祈りとひとつであることを、いま、見いだしている。それはきっと、神への愛が神への祈りとひとつであることを、しめしているものなのだろう。しかし、むかしは解ったと思っていた「神」という言葉は、ぼくにはむしろまだ言う資格はないものなのだろう。いまでも、神という観念や感情は、ぼくはすぐ生むことができる、以前のように。だから、神が解らなくなったということではない。むかしよりももっと切実に、神という言葉を定義したい。きみという実在が、その前に「在る」のだから。