ぼくはこういう路の人間なのだということを思いだそう 

 

初再呈示

テーマ:

辻邦生先生のことについて触れたので書きたい。今の状態では機を逃すと何も書けない。意志的になって書こう(辻さんは「意志の人」と言われた)。ぼくが高田先生の存在を知ったのは、森有正氏と共著の『ルオー』によってであったが、その頃先生はもう御高齢でお会いできる状態ではない様だった。生前の森氏にもお会いする機会はなかった。唯一、森氏の一番弟子の辻さんとお会いし、高田先生、森さんの精神の系譜に繫がるこの第三の人によって、学識とか年齢を超えた「人間」としての接触というものが日本でもありうるのだなということを経験した。「同志」という言葉ではなくて「同士」とぼくは言いたいが、そういうものを経験したことでは、ぼくが実際にお会いした日本の知識人の中で殆ど唯一の人である。一緒に飲み屋に入って、ぼくが辻先生の言葉に集中しているのをからかって、「古川君は何も食わず何も飲まず、精神の世界だけに生きてるの?」と言われたのをつい先日のように懐しく思い出す。いちど辻さんの作品に関する覚書のようなものを送ったら、何か本質的なものを感じてくださったらしく、一目置いた態度になって「同士」として遇してくださるようになったことが、何より嬉しい経験として生きている。高田先生以前に森さんの思想にぼくが触れていて、辻さんの小説のなかに森さんの思想の具現を見出して感激し、便りを書いたことが接触の縁である。昼間ヤスパースを勉強し、夜は辻さんの小説を読んでいたものだ。映画通の先生からタルコフスキーの存在も教えられ、「ノスタルジア」を二度目に観て遂に沈潜できた感銘を伝えると、「それはよかったね」と真顔で嬉しがってくれた。本気のイデアリストだった。辻先生、人間未熟で一途だったぼくは先生にたいしても頑固さでは一歩も譲らなかった。それでもぼくはパリから先生に便りを書き、先生もそれに「友情」で応えられた。二人はそういうところ、さすがだと思う。純粋な己が志に生きた者同士、やはり根本においてわだかまりを超えて解消してしまうものがあるのだ。先生のイデアをぼくも愛している。