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すごい力作文を初年に書いている

 

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驚いた、PCに取り込んで聴いたら、フランクの交響詩と、彼女の演奏とが、全く同じ重さでぼくに感ぜられた。これはどういうことなのだろう。人間の重みが全く同じなのだ。「人間の重み」が。これはあたりまえだ。このあたりまえのことが実に価値のある奥の深い現前事実に思えることがうれしいのだ。どちらも「魂の証」である。そのかぎりでまったく同じ重さなのだ。これはあらゆることにいえる。魂主義こそは人間の真の平等を正しく理解させる唯一のものだ!


僕はいま彼女のピアノ演奏をフランクの「魔神」ピアノ協奏曲的交響詩の管弦楽団演奏と意識して比較的に聴いているのだが、ピアノ一台の独奏が大組織器楽演奏と力において拮抗しているどころか、その力において凌駕しているとさえ感じられ、これはすごいことだと思っている。相手は外国の世界的オーケストラである。しかしこれはありうるのだ、音楽の本質をかんがえれば。高田さんは身近にロランのピアノを聴いて、音楽そのものだと言っているが、これは技術面の問題を超過した音楽精神そのもの、つまり人間精神そのものの本質での勝負力だろう。私は断定する、組織的な統御された音楽力、指揮者によって指導的に生まれる演奏力は、まさにそれゆえに一人の人間の単に技術的のみならず魂と知性の籠もった自発的奏力の表現に敵わぬ時がある、と。これはやはり音楽が、孤独で自立する魂の訴えである時もっとも人の心を打つ(魂に達する)という、人間の本質を自らの究極の本質とせざるをえない運命をもっているからなのだ、あらゆる芸術の本質反省においてそこにゆきつくと同様に。つまり、芸術行為が何か本当に人間を感動させる時、それは単なる気分的慰めものではありえないのだ。これは「人間」行為の運命である。こうして人間の側が、単なる娯楽装飾として求められた技芸の枠を越えて、人間の根源(魂)の自発的表白へと発展させざるを得なかった。これが芸術発生という運命・必然性である。このとき、最も感動を実現するあらゆる芸術行為様態は、本質的に〈独り〉のものであることが理解されるであろう。〈集団〉媒介様態はつねに〈魂〉に直接的ではなく間接的な芸術行為であり、その集団ゆえの技術的計算的機械操作的な感覚効果の壮麗さに、われわれは無抵抗的に聴いていると、最も魂的な感動のあり方を忘れ、忘我的に麻薬的音響効果をこの本質的感動と取り違えることさえしばしばするであろう。それは芸術が芸術になる前の技芸段階に退行しているのを不審に思わないことである。娯楽装飾的慰み(場合によると忘我的熱狂)は、それはそれでスポーツ観戦と同様生活の弾力性をつくる気分転換にはなる(あるいはそれを越して道楽になる)。しかし、誰でもそのような次元では済まない真面目で深い自覚的な感動、感銘を覚える時があるであろう。自分を自分自身に創造的に立ち返らせるような芸術感動を覚える時が。尤もこれは芸術提供側がそのような感動感銘を与えうるような魂的に本物な内発的な力を、技術以外に懐いているのでなければならない。そのような演奏家を判断することとなると、現在の世評がどれだけ確かかはなはだ疑わしい。特に技巧重視のクラシック界こそ危うい。観衆は何に喝采しているのであろうか、スポーツのファインプレイ等に拍手するのと同質の満足に留まっているのではないか。最も責任あるのは提供側である。それ以上の次元で出来るしすべきものを、音楽の本質次元を下に落しているのは提供側ではないか。興行的運営に呑み込まれている実態。これがすべてを引き下げている。今のクラシック演奏で〈魂的〉に感動するものなど殆どない。なにをめざして奮励しているのだろうと聴いている側が気懸りになってくる。翻って、〈クラシック〉以外の音楽形態でも、奏者が真面目に魂を籠めれば、本当に聴く者に「人間愛」を呼び覚ますのである。破壊戦争の音頭取りに使用し得るような正統楽曲を本当に魂的に愛することは、「自分」に多少とも覚醒している人間には不可能である。

 (9.5 未明)

音楽のこの娯楽性(装飾性)と精神性(魂性)の間で、文化性が問題となるとき必然的に生じるのが民族性への問いである。イタリア・ドイツ・フランスの大家達は民族的音楽なるものをつくろうと意図したのではなかったはずである。出来上がった作品が結果的に各々の文化的土壌を現わしていることが、事後反省的に気づかれた。これが健全正常な創造過程である。しかし創造以前に他国の作品が手本としてある後発国の作家達には事情が創造意識において逆転していた。反省意識、この創造の後にくるべきものが先にきた。これは一種の精神倒錯現象である。ロシアや日本の作家達はこれを抱え込んだ。本質論的には、創作者自身の孤独な魂的自覚に、これを根源として自らを委ねてよかった。しかし音楽本質それ自身における娯楽性と精神性との間の振幅、そこにおける文化性を意識するとき、この自立的個人主義的魂の本質論を専ら貫徹することは、事実的な音楽というものの存在場(聴衆動員力という前提)の特性を考慮するならば相当難しかったであろう。後発国に宿命的な後追い的成果主義である。社会が悠長な孤独の経路を許さない。大衆性と純粋精神の間で綱渡りをしなければならない。孤独は貫徹されない。音楽家の佐伯祐三は難しかった。日本の音楽家はロシア音楽家にもまして民族的土壌性に、それこそ民族的一般特質から拘泥した。音楽の魂的なるものを〈忘我的〉自他融合感情の惹起効果と混同し、あるいはまた同様に忘我的な自然一体感情と混同して、魂を高めるよりはむしろ原始化する志向をとった。自我意識の蓄積昇華の過程は最初から生きられないままの創作苦闘の必然的結果だったであろう。〈特殊を通して普遍へ〉の理念は或る意味健全に把握されていたが、この「普遍」が自立的魂の照応当体であることは想到しなかったであろう。魔術的ではあっても真に魂を覚醒させるものではない。ベートーヴェンやフランクが音楽家である前に何であったかの問題だろう。
 
 (9.5 午後)