「記憶は生きている」。かなり以前、このかんがえを覚書きしたことはある。その後、というか最近、マルセルの日記を読んでいることで、このかんがえの射程の広さ大きさに気づき、全部は一気に書ききれないような内容に気づいている。ここで言う「記憶」とは、「場景」と言い換えられるような、「シーン」(マルセルはそう呼んでいる)のことである。そしてこの場景そのものが、どうやら時空から独立して自立的に存在して、つまり生きているようなのである。そう想定しなければ説明できないような超心理学的で形而上的な現象を、マルセルは反省している。そういう諸々の「シーン」は、個々が、いわば光の球のようで(「光の球」というのはぼくの表現である)、霊視者が或る出来事にゆかりのある事物に接してその時空を離れた出来事を霊視することが出来るのは、その事物が密着している、つまりその記憶と共にある場景(シーン)に精神を接続するからである、というのである。だから、個々が光の球のような記憶圏は、人間の物覚えとは別に存在している、つまり生きているようなのである。このことを拡大してかんがえると、この世界そのもの、宇宙そのものが、無限な生きた記憶の圏から成っていて、そして多分それら記憶の圏そのものがお互いに連絡し合って「ひとつ」であるのかもしれない。われわれが或る物語(実話であろうと創作話であろうと)に接して活気づいたり元気をもらったりするのは、想像力もけっきょくそれに基づいている宇宙的な記憶の世界の生命力をじっさいに頂くからにほかならないのではないかと、ぼくはそこまで想到するようになっている。そしてこのことは、人間の魂が不死であることの根拠にもなるのではないだろうか、と。それはけっきょく、魂というものは記憶であり、魂どうし、共通の記憶によって結ばれているからなのだ。なぜ共通の記憶を持てるのかというと、記憶そのものが場景として自立しているからである。ぼくたちは、その「生きて」いる記憶に参与して、「生命力」をいただくのだと、ぼくは想到するようになっている。
 「自分」と「他者」という敷居や、時間的、空間的な敷居が、先ず在るのでは、ないのだ。先ず在るのは、そういう多分意識の産物であるような敷居を越えたものこそなのだ。