意外にも初再呈示 この週で接続最多 

 

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 私をフランス思想の勉強へ促した存在、彫刻家にして思想家、高田博厚の中心思想と思われる「触知し得るイデー」(idée tangible)という観念は、近代以降において人間主体の能動性および受動性という二元論的枠組で扱われることの多い「自由」と「感覚(感性)」の問題を、この枠組を越えて一元的な方向において理解することにより、それら本来の創造的な意味を回復させる道を開いている。自由が真に「創造」の営みを為し得るのは、イデーを感覚し得る程にいわば知性化された感性に、思念としての自由が密接して働き得る程度に拠る。このような感性を高田は「純粋感覚」と呼ぶが、これは、人間の「経験」が測り難い時間の働きによって結晶化したものとしてのイデーに、素直かつ謙遜に己れを開いた思念そのものに他ならない。すなわち、一切の恣意性が除かれた純粋性の極みにおいては、本来、自由と感覚は同一なる思念に帰しているのであり、この思念の内容が、思念主体の自己触知状態としてのイデーなのである。ここに、人間主体は自らを超えた働きと関わることによって自己同一性を得るとする実存思想の根本命題の一確認を観ることも可能であろう。とまれ、高田においてはイデーが具体的感覚対象に即して一種の非意図的想起(レミニサンス)において触知的に現出するものとされることによって、思念の感覚的純粋性がいわば確保されていると言い得る。芸術作品への感動の内容であるこのイデーの源泉を反省することにより高田は、ベルクソン的な持続する自我を、すなわち、経験の集積から創造を為す自我を、意識する。ただ、高田にあっては、主体にとってのイデーのこのような本質的親密性とともに、その超越性が、経験からの形成過程に関して明らかに意識されており、その故にこそ、思念が純粋感覚としてイデーに密接することに形而上的領域への接近が観られているのである。





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遠慮なく言えば、ここにわたしの哲学的思索の結晶のひとつの真骨頂がしめされていると思う。

もうすこしおつきあいねがいたい。