初再呈示 公開

テーマ:

 

いじめに正面から向き合う「考え、議論する道徳」への転換に向けて

 

 11月2日、いじめ防止対策協議会から、いじめの防止等の対策に係る提言をいた だきました。文部科学省は、これに沿った取組を様々な角度から総合的に進めてまいります。 その中でも、私は特に、平成30年度から全面実施となる「特別の教科 道徳」の 充実が、いじめの防止に向けて大変重要であると思っています。 いじめられた子供は、学校に通えなくなったり、心身の発達に重大な支障を生じたり、尊い命が絶たれるという痛ましい事案も発生しています。いじめた子供も、法律 又は社会のルールに基づき責任を負わなければならない場合があるとともに、その心 に大きな傷を残します。「いじめのつもりはなかった」、「みんなもしていたから」で はすみません。また、いじめられている子供を見ていただけの周囲の子供も、後悔に さいなまれます。 子供たちを、いじめの加害者にも、被害者にも、傍観者にもしないために、「いじめは許されない」ことを道徳教育の中でしっかりと学べるようにする必要があります。 (「考え、議論する道徳」への転換) 道徳の特別の教科化の大きなきっかけは、いじめに関する痛ましい事案でした。 これまでも道徳教育はいじめの防止に関して大きな役割を負っていました。しかし、 これまでの道徳教育は、読み物の登場人物の気持ちを読み取ることで終わってしまっていたり、「いじめは許されない」ということを児童生徒に言わせたり書かせたりするだけの授業になりがちと言われてきました。 現実のいじめの問題に対応できる資質・能力を育むためには、「あなたならどうす るか」を真正面から問い、自分自身のこととして、多面的・多角的に考え、議論して いく「考え、議論する道徳」へと転換することが求められています。 このため、道徳の授業を行う先生方には、是非、道徳の授業の中で、いじめに関する 具体的な事例を取り上げて、児童生徒が考え、議論するような授業を積極的に行って いただきたいと思います。 いじめやいじめにつながる具体的な問題場面について、例えば、 ・どのようなことが、いじめになるのか。 ・なぜ、いじめが起きるのか。 ・なぜ、いじめはしてはいけないのか。 ・なぜ、いじめはいけないと分かっていても、止められなかったりするのか。 ・どうやって、いじめを防ぐこと、解決することができるのか。 ・いじめにより生じた結果について、どのような責任を負わなくてはならないのか。 といったことについて、自分のこととして考え、議論して学ぶことが大切であると考 えます。こうした学びは、いじめという問題だけではなく、道徳教育の目標である「自 己の生き方を考え、主体的な判断の下に行動し、自立した人間として他者と共により よく生きるための基盤となる道徳性を養う」ことそのものにつながるものであると思 います。 こうした取組は、道徳の特別の教科化の全面実施を待たずにできることです。学校 や児童生徒の実態を踏まえつつ、できるところから、いじめに関して考え、議論する 授業を積極的に展開していただきたいと思います。 (文部科学省の取組) 文部科学省では、道徳教育の充実のための資料等をホームページ上で提供する「アーカイブセンター(仮称)」を設け、 ・「考え、議論する道徳」の授業づくりの参考となる実践事例集(映像資料など) ・道徳や特別活動等で活用できる、いじめの具体的な事例から考え、議論する教材 などを、順次公開し、各学校の取組を後押ししていきます。 また、「考え、議論する道徳」への転換の趣旨について、広く知っていただくため、 ・各都道府県等が行う独自教材作成、研究協議会等への支援 ・全国7会場での道徳教育指導者養成研修(独立行政法人教員研修センターとの共催) ・道徳の特別の教科化についての保護者向けリーフレットの作成、配布 なども進めていきます。 教職員の方々はもとより、学校教育に関わる皆様に広く知っていただき、力を合わせて、道徳教育の充実に取り組んでまいりますので、よろしくお願いいたします。 平成 28 年 11 月 18 日 文部科学大臣 松野 博一

 

 

 

 

 

 

(1)文部科学省が教育問題に関する動画の広告で、「いじめ」問題を強調しているのに触れましたので、いまの存念を書いてみます。


「人間の尊厳」

わたしが小中学生だった頃は、「いじめ」など学校で問題になったことはありませんでした。ガキ大将みたいな存在もなく、生徒間の妙なこともほんの一日だけで、翌日につづくことはありませんでした。生徒も先生もまあそれなりに自然に主体的で、全体としてはもっとも平和な時代でした。日本の教育は長らくずっと「いじめ」問題を引きずっているようですが、わたしの時代と地域の者たちにとっては、学校での「いじめ」で登校できなくなったり自殺したりという問題が生ずる共同生活場というものは、経験上、異世界のようで、想像すらできません。「いじめ」は言動の暴力だと思いますが、この暴力は心への暴力です。心への暴力だということでは、進学高校へ入ってから、(つづく) 

 

(2)・・・大学入試のための学習を前面に出した教師の言動による、生徒への心的暴力が、いまでも怒り憎むべき記憶となっています。道徳的な過ちも無いのに、学業という、じぶんの自由に携わるべき事柄で、いちいち教師から、道徳的な過ちを為したと同様な態度と語気で責められ怒鳴られ貶されては、まさにこれこそ「いじめ」の真の原型なり、と受けとめざるをえません。わたしは小・中・高・大を通して、現在問題となっているような「いじめ」は、自他ともに全く経験せずにきた者ですが、進学高校の学力唯一主義の、教育上の本末転倒さ、教師による生徒への心的暴力こそ、一生精神の傷として残っている、わたしにとっての「いじめ」の経験です。しかし、現在の教育の場での問題である「いじめ」と、わたしが経験したものとしての教師からの「いじめ」には、共通した本質があると思います。それは、「人間の尊厳」の蹂躙、ということです。(つづく)
 

(3)・・・ずっと心の傷として残ることでは同じです。日本の教育はその社会とともに、「人間の尊厳」というものを、あまりに問題にしないできました。どのような次元に「人間の尊厳」が成り立っているか、殆ど一般では反省しないできました。それが極端な成果主義にもつながっています。「和」は重視しますが、人間すなわち「個の尊厳」の意識が、日本ではほんとうに定着していません。「個」を重視させると反社会的な自己主張ばかりしてくる、という程度の理解しか、国の責任者自身が持っておりません。それで戦前のよいところを教育でも復活させようという単純な話になる。これは日本人自身が幼稚で、思想を培っていないところから来ています。人間哲学の不在です。そして日本の哲学は、真に教育の基礎ともなるようなものではありませんでした。ほんとうに考えるということを、難解な概念思弁と履き違えていました。結果、(つづく) 

 

(4)・・・個人をあまりに単純に否定した全体主義肯定の哲学、大義名分の哲学になり果てました。なにより大事な思索の礎は、「人間の尊厳」であり、それは人間の「魂の尊厳」なのです。人間の「魂」を感じ、大事にする、このことを、進学校の教師あたりから、改悛して実行してもらうことです。学校での「いじめ」は社会での「いじめ」の投影であり縮図です。日本社会はあまりにも「人間の尊厳」に無自覚であるゆえ、子供たちもその無自覚さを受けているのです。最も反省すべきは日本の大人社会の程度の、民度の、低さです。ふざけた言動をしたい放題の者たちがメディアを跳梁跋扈している日常のさまにもそれは歴然でしょう。わたしは、ああいう者たちこそ刑務所に送るべきだと本気で思っています。
 

___
(略)ー関係の問題に意見を絞りました。日本の進学高校の体質が、教育の本筋を本末転倒なものにしています。歪んだ成果第一主義の社会風潮の一つの温床でしょう。ー

 

 

 

14:50