これを雑本(失礼)の一つとして読んでいる。宅にあったのだが、読む時期ではなかった。現在なら政治に関心をもたない訳にもゆかないから、やっと自発的な読む雰囲気が生まれたのだ。しかしぼくは高田博厚の言わば魂芸術論に潜心しようとしているから、あまりに潜心して平衡を逸しないように、時々の気晴らしとして、この本に気が向いたのだ。新聞を読むようなつもりで(ほんとうの新聞のほうは、皆が承知している事情で、読まない)。読み始めてみると、世界の現実に接する筆者の冷静な叙述は優れて知性的であり、単に主観的なものも煽情的なものもまったくない。筆者が往時のベトナム戦争の取材を新聞社から頼まれて現地に赴き、実際に経験したことを知性者らしい知識や想念を背景として即事象的に記している。氏が政治に入って行ったのはベトナム戦争取材経験からであったことが、初めから率直に表明されている。これならばぼくの高田博厚芸術論と充分に両立すると理解した。そのくらい人間的で知的だからである。現代にそのまま通じる言表もたくさんある。

 

《単純に悪とか善では割り切りきれぬ人間たちのものごとの本質は戦争という場を借りて、なまじな知性を鼻にかけた者たちの観念をせせら笑ってみせる。

 そこではおぼこな日本人たちの好きな、というよりその束縛をのがれられない、ただ善か悪か、白か黒かといった価値に関しての素朴で粗雑な二元論は通用しはしない。》 15頁

 

《日本人の思考に本来著しく欠けていた相対性》 16頁

 

 

具体的経験を記しつつ、現在の新聞を無限に上回る的確な良識を即座に確認させてくれる。