再呈示と書き加えの初再呈示

 

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「雪の特異日」(きょう)という日があることをはじめて知りました。

 

ほんとうに前世は こういうところにいたのかもしれないな … そのくらい感覚が直接にはたらきかけてくる …  

 

この塔と空間はどうしてこんなにいいのだろう。ぼくには直観としてわかっているが表現の言葉を見出せない。

 

 


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吹雪の音は故郷の音

 

忘れていた感覚がよみがえります

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言葉は灯である

 

しかしすべての言葉は沈黙のなかで煌めいている

 

 

 

 

 

幼児であり大人であり神なのだ

 

 

 

 

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別事 

 

デカルトの懐疑が現在こそ現実的であることはない。「欺く悪しき霊」を想定し、すべてが、自分の判断までもが、その仕組んだ必然性によって生起するとしても、みずからの思惟のみは、それに対峙し、自分の納得のゆくようにそれらを謂わば調整することができる。これこそは人間の自由である。自己の自己にたいする同意、これこそが自己立法(思想)である。   

 

 これはひじょうに明瞭である。 

 

 

 

魂はどこにあるのか。身体にも霊界にもない。自分で創造するものである。 

 

記憶は、自分の記憶だけではない。自分は、多分、自分の記憶だけを有しているのではない(マルセル「形而上日記」でも論及されている)。記憶はかなりそれ自体として存在しているといえるとともに、創造することもできる。 

 

〔みずから創造した魂の記憶が思想であって、これのみが自分(のもの)である。
 これがいまのぼくの思惟の到達点である。〕       

 

 

本質のみを示すのが芸術(的態度)である。説明註釈は捨象される。そういう精神態度に 一元化の欲求そのものがもってゆく。説明註釈を拒むようになる。 いまがぼくのそういう状態だから、読者には不満な点もでてくるだろう。   

 

 

理解をもとめず作品だけを ・・・

 

 

 

 

人間関係は誤解の体系である。うまくいっていると思う者は孤独のない者である。

 

 

悪魔とは無意味な「水をさす」(容喙)行為である。ずっとむかしからあることは、いま承認できる。それでも魂は自己を成就するようにできているが、だから問題は、それではこの行為をいかにするかだ。 ぼくは(ぼくにとっての)この世の主なのだから。

 

 〔容喙は、思惟させる棘である。〕