2019年来の三度めの再呈示

先週最も読まれたそうだ 

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「芸術は人間の天性であり、天性は神の芸術である。」


「欺瞞者は「悪魔」ではなく人間である。あらゆる欺瞞の最初の、そして最悪のものは、己れをあざむくことである。これをやってしまえば、あらゆる罪悪は容易に後からついてくると思うがよい。」

     
     ジェームズ・ベイリー



なるほど、世人がしているのはこれなのかもしれぬ。すこしわかる気がする。

自分に不誠実で自分を裏ぎる者は、そのほかのあらゆる〈裏ぎりのための裏ぎり〉をするだろう。自分の都合本位で無責任であり、そのくせ自己弁明と他者非難だけは、理屈をかたむけてするだろう。これこそ「エゴイズム」であり、「自己愛」の最も対極の反倫理であることがよく了解される。完全に自分を忘却している。その言葉はすべて世間ベースである。もう気分が悪いからここで打ち切りだ。悪魔に喰われるはずだ。こういう無自覚的生活者が多くの人間だろう。無明の中に生きる者たちである。表面の良識面と 付き合い言辞で過ごしている。

 ぼくが関係を持たないわけだ。



世人がそういうベースで生活していて、〈信仰〉や、〈成功の法則〉などを〈得た〉からといって、精神的内実がゼロなのはあたりまえではないか。根本で 自分を、「人間」を、裏ぎったままなのだから(これこそ根本悪ではないか)。けっしてほんとうに「神」とともに生きてやしない。あまりにもそういう純化されていない信仰を ぼくは見過ぎた。もう根本が全然違うとしかいえない。







自分への礼儀と配慮は、他者への礼儀と配慮と同様、大事である。







狩猟者もそうでしょう。まず餌づけをする(〈信頼〉を得る)。悪魔はまず親切にする。人間の「善への期待・信仰」(此の世-の原理-はやはり善であってほしいという思い)を利用する。引っ掛からない者はいないだろう。


自分を裏切らなければ一生孤独でよい(高田先生はそう言えたひとであった。だからぼくは信頼した。そう言えない俗人がなぜこうも思想界にまで多いのだろう。およそ思想する基底を欠いている)。他のために自分を裏切る者は、どうなるだろう・・・


〔基底: 基礎となる底の部分。思想・行動を支えている、もとになることがら。〕




あたりまえの身体にくつろげないということがどういうものか、他にはわからないだろうな。

苦しみというそれ自体はネガティヴに思われるものは、一般はけっして欲して知ろうとはしない。喜びと同様、苦しみにおいても人間は孤独である。



人格とは、自分に明晰(明瞭)であるところの知性のことである。そこに「作品」と言えるものが生まれる。 自分自身に明晰であれば、そこに自分が見いだしうるかぎりのものが見いだされる。「作品」は、その明晰さの証、形となったものである。

裕美ちゃんの音楽がそういうものを感じさせなければ、どうしてぼくがこれほど深く感動することがあるだろうか(それは透明で明晰な、しかもかぎりもなく深く広い感動なのだ)。魂が魂に伝わるということは、大変なことなのだ。そこではあらゆる自己満足が断罪される。自分が自分に明晰であるぶんだけ、ほんとうに感動させるということが生じるのだ。ほんとうに愛する瞬間、自分が自分に明瞭になっているのではないだろうか。愛は知性なのだ。このふたつは別のものではない。

「作品」とは、そういうものであり、魂の思想、魂の芸術である。歓ばしくもなんと厳しいものだろう。

純粋(ピュア)とは、英明な深さである。