懐かしい初年の意外な初再呈示 懐かしかったので

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「親切が仇(徒)になる」という言葉がある。「親切仇(徒)になる」と言うべきだ。ほんとうにしっかりしている者は、気前よい気持になっている時ほど自戒して自分の本道のために他人に余計な親切などしない。精力と時間を失うつまらない帰結しか生まない。前から経験が教えるところだったはずだ。

正気の人間がよっぽど狂っている。戦争は絶対なくならない。店を開いている人はそれがよくわかっているだろう。あきれたものだ。これが世間か。ぼくは大学などというきれいなところしか見なさ過ぎた。しかしいまさら世間を相手にしていることはできない。

大学といえば、ぼくが嘗て(といっても五年前ぐらいの感覚なのだが)たまたま体調不良にもかかわらず堪えて一生懸命講義をしていた時、にわかにちょうどぼくの正面一帯に座っていた随分多くの学生たちがざわざわし始めたことがあった。はっきり覚えている。その後学生達がぼくを指しながら交していた言葉を偶然立ち聞きしたことで理由がわかった。「あの歩いているやつ、授業中にオーラが出てたもんな、すごいよな」、と言っていたのだ(俺達より若いな、と言われるのはいつものことなのだけれど、こう言われたのははじめてだった)。ぼくに疑念は無かった。そりゃそうだろう、あんなに気分わるいのに念力出して授業やってたんだから、異常な力のしるしのひとつぐらい出るだろうさ。オーラは特定の人にのみ見えるらしいが、ぼくのはそこに居合わせたほぼ全員に見えたらしい。欧州にいたときもちょっと面白い気づきがあった。ぼくが或る精神状態になると普通の人でも何かぼくの周りに見えるらしい。それだけではない、念や無言の言葉の感知や理解も経験している。フランス人が心の中で呟いた言葉はフランス語で感知した。或る集中した意識状態になっている時それが起こる。日本人なら日本語だろう。こういうことはこの欄では初めて言うが、ぼくにとっては別に何てことはない、それで知恵が増えるわけでもない、あまり意味のない現象だからだ。こういうものはいつも、主観的にはそう感じた、という但し書きを付けなければならないことは理屈では心得ている。普通、客観的事実としての実証はできないからだ。しかし一度、随分前だが、図らずも客観的に実証されたことがある、〈テレパシー〉が。日本の学生時代に遡る。下宿でカントの純粋理性批判を原書で集中して読んでいた時、ふとこういうことを意識した:カントの説に拠れば、此の世の物質的空間的現象は、人間意識の認識形式の枠の中でのみ相互に隔てられた諸要素において捉えられるのだから、そういう現象の底の存在自体(Ding an sich)においては、隔てられることなく多分ぐっちゃぐちゃに浸透し合っているのかも知れないな、と。そういうことに意識が妙に集中した状態で、お腹がすいたので近くの中華料理屋さんに行った、じつは、何か変なことでも起るかなという何となしの予想みたいなものを勝手に懐いていた。カウンターに席をとって、ぼくは慎ましく炒飯でも食べていたと思うが、隣の席の人の餃子があまりに美味しそうだったので、思わず自然な一念で、「ぼくも餃子食べたい!」と心の中で独りごちたのです。そうしたら、ぼくにちょうど背を向けて調理に集中していたその店のコックのおじさんが、妙な雰囲気で、座っていたぼくの方に振り向いて、ぼくにだけ聞えるような小声で、「お客さん、今、餃子って言いませんでした?」と訊いた時のどきっとしたことったら! 誰が、〈いえね、心でそう言ったんですけど、口には出さなかったのですよ〉、とありのままをそういう席で言えると思います? 「いいえ、言いませんでした」、と答えるのがやっとでした。そうだよな、そんなはずないよな、という感じで、コックさんはやはり変らず妙な表情で仕事に戻りましたがね、ぼくは、ああ、これがテレパシーってものなんだ!ってぞくぞくしましたよ。気のせいでない、はからずも人相互の間で実証された瞬間だったのですからね。今夜は座興でした。ほかにもいろいろぼくにはひみつがあるのですよ。全部言ったら大変なことになるでしょう。だから小出しにしてます。だからってユリゲラーのような力はありませんし、多分みなさんが多少持っている範囲のことだろうと思っています。ただちょっと気になるものがあるのではありますがね。積極的な害が人に及ぶようなものではありません。ではおやすみなさい。

そうそう、前節の最後ですばらしい抽象画像を載せることができました。これも ひ み つ (念写ではありません)。




たとえ創造主であろうとも、わたしの尊厳を貶める意志は許さない。
この命題がわたしの全反省を支えている。雑魚は全く問題ではない。


日本が文化国となるには、孤独な人間が増えねばならない。日本人の都会志向は孤独を求めてのことが多い。田舎自体が不満なのではない。田舎という小空間に密な〈日本的〉人間関係を嫌悪し都会の孤独を日本人は憧れるのだ。田舎を清澄な孤独の園にすればよい。そうすれば人は田舎に留まる。そのためには、人間精神は本性的に孤独を求めるのであることの理解が日本に浸透せねばならない。一国の民度はそこに掛っている。人間関係そのものが孤独の尊重に基づくべきなのだ。これを理解しなければ日本は永久に土民の中の土民の国であり続ける。こましゃくれた知性の問題ではなく、人間の素朴さ純粋さ(高度の純朴さ)の問題なのである。何十年も、一生涯、同じ〈僻地〉に海を眺めて暮しながら深い思索と信仰を培う修道者の如くあるべきである。西欧の人間性はこの次元において変らずわれわれの憧れであると正直に認めよう。 十月もあすで終りである。

僕は今度生れてくるときも日本人でよいと思っている。日本人でありながらしっかりするのでなくては何にもならないと思うから。他国人と印象比較して瞭然なのは、日本人はものがちがうということである。内部の人間神経が違っており、これでなくては僕の人間神経が納得しない。日本人を立派にしたい。日本人は優れているのだ。知性も外見ももっと立派にしたい。

日本人は人間を正面から深くかんがえることが殆どない。つまり自分を、自分の人生をまともに反芻することはない。西欧人は(自分の)歴史から離れることはけっしてない。歴史の反芻から信仰にまで至る。日本人は西欧人のように「人間」に真面目ではけっしてない。すぐに〈自分史〉などという〈遊び〉にしてしまう。西欧人がみたら嗤うだろう。西欧人の一般にみられる、自分の生を真摯に窮める態度など、日本人にはまったくない。日本にいると自分が馬鹿になる。日本人が互いのかんがえを軽んじ知識人を認めないのは、本物の思想の不在を感じているからである。

好奇心というのは苦しいものである。われわれは自己に沈潜するように出来ているのであって、外に気が散るようにはできていない。